第十六章:ナイルの休息
紀元前47年3月、ナイルの戦いでの圧勝によって、約半年に及んだアレクサンドリアでの長く混沌とした戦いは、ようやく終わりを告げた。
カエサルは、アレクサンドリアでの戦後処理を終えると、すぐさまエジプトの新たな統治体制の構築に着手した。
彼は、自らがその手で未来を託した若き女王、クレオパトラを、エジプトの唯一無二のファラオとして、その玉座に据えたのだ。
その日の夜、カエサルはレビルスを呼び、自らの構想を語った。
「……エジプトは、属州にはしない」
その言葉は、レビルスの計算の前提を、根底から覆すものだった。
「このエジプトという、数千年の歴史を持つ国を、その事情に詳しくもないローマの総督が、果たして現実的に統治できると思うか?下手をすれば、ロンギヌスがヒスパニアでやったように、反乱の火種を無駄に増やすだけだ。この国に必要なのは、ローマの法を押し付けることではない。ローマの利益を理解し、ローマのために、この国を豊かにできる、強力で、恒久的な統治者だ」
カエサルは、今、新しい支配の形を模索していた。
有力者個人の気まぐれに左右される、特定の個人に依存した同盟国でもなく、従来の属州でもない。
ローマという国家システムに完全に組み込まれ、その心臓部である穀物供給を担う、忠実なパートナー。
「クレオパトラは、そのための『楔』だ。彼女が女王としてこの国を治める限り、エジプトは、ローマの最も豊かな食糧庫となるだろう」
数週間後、アレクサンドリアの街は、嘘のように平穏を取り戻していた。
その日、カエサルは、一つの布告を出した。
「女王クレオパトラと共に、ナイル川の視察旅行を行う」と。
それは、ローマへの穀物供給路を確保するという実務を兼ねた、束の間の休息だった。
出発の前夜、カエサルは、レビルスを自室へと呼び寄せた。
「……レビルス。お前にも、休暇をやろう」
カエサルは、穏やかな顔で言った。
「君の計算がなければ、我々は皆、このナイルの砂に埋もれていた。少し、休め。だが、頭だけは休ませるなよ。お前のその頭脳が、次にどんな計算を導き出すのか、楽しみにしているのだからな」
翌朝、レビルスは、港から出発していく、カエサルとクレオパトラの、壮麗な船団を見送っていた。
カエサルの命令により、兵士たちは交代で休息を取ることになった。
そして、レビルス自身も、内乱が始まって以来、初めてとなる長い休みに入った。
最初は、何をすれば良いのか、分からなかった。
あまりにも長い間、極度の緊張状態に身を置き続けていた彼の心と体は、休息の仕方さえ、忘れてしまっていたのだ。
彼は、ただ、漫然と、アレクサンドリアの街を歩いた。
兵士としてではなく、一人の旅行者として。
そんな彼のもとに、休暇を取った仲間たちが、一人、また一人と、顔を見せに来た。
「いやはや、とんでもない街ですな、ここは」
最初に訪ねてきたのは、セクンドゥスだった。彼は、いつもの皮肉めいた口調で、しかし、どこか楽しそうに語った。
「肌の色の違う連中が、そこら中で叫び合ってるかと思えば、ギリシャの小難しい哲学を、酒場で議論してる。俺たちの物差しじゃ、とても測れん街だ」
次にやってきたボルグは、ただ一言、 「……石が、違う」 とだけ報告した。
彼は、休暇中、ずっとファロス灯台の巨大な石組みを、黙々と眺めて過ごしたらしかった。
レビルスは、そんな仲間たちとの、他愛もない会話の中で、少しずつ、本当に、少しずつ、自分を取り戻していった。
彼の心と体にこびりついていた、血と、インクと、そして、無数の数字の重みが、洗い流されていくような気がした。
夜になれば、彼は、宮殿の自室で、ただ、静かに星空を眺めた。
計算のためではない。ただ、その美しさを、感じるためだけに。
それは、彼にとって、本当に、久しぶりの、休息だった。
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