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内乱記異聞  作者: 奪胎院
序章:内乱前夜

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第七章:三本の矢

その夜、ローマの喧騒から隔絶されたアウェンティヌスの丘に建つ、ルキウス・コルネリウス・バルブスの私邸の一室は、静かな緊張に満ちていた。


カエサルの腹心であるバルブスとガイウス・オッピウスが、二人の重要な客人を、それぞれ別の時刻に招いていたからだ。


彼らの武器は、剣でも軍団でもない。


机の上に山と積まれた帳簿の巻物、ローマ全土に張り巡らせられた情報網からの密書、そして、ガリアから絶え間なく流入する莫大な資金。


これらを駆使して、彼らは元老院の保守派貴族たちとの「静かなる戦争」を戦っていた。


宵の口、最初に訪れたのは、ガイウス・スクリボニウス・クリオ。


若く、弁舌に優れ、現職の護民官として民衆から絶大な人気を誇る男だ。


しかし、その華やかな評判の裏で、彼は途方もない額の借金を抱え、破滅の淵に立たされていた。


彼は、この密会に応じるしかなかった。カエサルの代理人を名乗るこの男たちが、自分の首を締め上げる鎖の、その端を握っていることを、彼は知っていた。


「…それで、私に何の用かね。カエサルの影法師殿」


クリオは、オッピウスとバルブスを前にしても、不遜な態度を崩さなかった。彼の背後には、常に債権者たちの厳しい視線が突き刺さっている。その焦りが、彼を尊大にさせていた。


バルブスは、笑みを浮かべながら、一枚の羊皮紙を彼の前に滑らせた。


それは、クリオが抱える借金の総額と、その債権者リストを、一分の狂いももなく記したものであった。クリオの顔から、血の気が引いていく。


「…どこでこれを…」


「我々は、ローマの金の流れを隅々まで把握しております」


オッピウスが静かに言った。


「そして、クリオ殿。我々は貴公の金の流れだけでなく、その類稀なる能力も正しく評価しているつもりだ」


オッピウスは続けた。


「貴公は、ただ弁が立つだけの男ではない。その大胆な行動力、旧弊に囚われぬ発想力、そして何より、民衆の心を掴んで望む方向へ動かす天賦の才覚。先日の穀物配給に関する議論を見事な手腕で民衆の支持へと繋げた手腕、我々は高く評価している。そのような大いなる力が、借金という些末な鎖に繋がれているのは、ローマにとっての損失だ」


バルブスは、もう一枚の羊皮紙を差し出した。それは、カエサルの個人資産から、クリオの借金全額を肩代わりするという、署名入りの証書だった。


「我々は、貴公の才能に投資したい。カエサル閣下のためにその力を用いる気があるのなら、この鎖は、我々が断ち切ろう」


クリオは、二枚の羊皮紙を交互に見つめ、その額に脂汗を浮かべた。


彼は、元々は反カエサル派の家系の出身だ。ここで彼らに与すれば、全ての友人や支援者を裏切ることになる。


だが、断れば?


そう遠くない未来、債権者たちに身ぐるみはがされ、ローマから追放されるだろう。


何より、彼の心を揺さぶったのは、オッピウスたちの言葉だった。


彼らは、自分の弁舌だけでなく、その本質的な能力そのものを評価している。この男たちならば、自分を単なる駒ではなく、重要な戦力として扱ってくれるのではないか。


「…よかろう」


長い沈黙の末、クリオは絞り出すように言った。


「カエサルの犬となってやろう。その代わり、この借金は綺麗に清算してもらう。そして、私が民衆の心を掴んだ暁には、それ相応の報酬をいただく。護民官の任期が終わった後の、安全な属州総督の椅子くらいは用意してくれるのだろうな?」


「無論です」


バルブスは満足げに頷いた。


「我々は、友の働きに必ず報いる主義ですのでな」


クリオが、悪魔に魂を売った男の顔で退室していくと、オッピウスはバルブスに言った。


「…金で買われた忠誠は、金で裏切られる。危険な賭けだ」


「だが、今はその危険な刃が必要なのだよ、オッピウス。あれは、我々が元老院で放つ『第一の矢』。民衆という名の追い風を吹かせ、時には軍団を率いて敵地に切り込むことすら可能な、最高の矢だ」


クリオが去った後、二人は次の客人を迎えるために、部屋の空気を入れ替えた。


借金リストの巻物は片付けられ、代わりに、ローマの水道橋や街道の改修計画が描かれた地図が広げられる。


夜が更け、二本目の矢を迎え入れる準備が整った頃、もう一人の客人が姿を現した。


マルクス・アエミリウス・レピドゥス。


ローマでも屈指の名門貴族の当主であり、次期法務官の座を約束された男だ。その立ち居振る舞いには、クリオのような焦燥感とは無縁の、生まれながらの支配者の威厳が漂っている。


「待たせたかな」


レピドゥスの言葉に、バルブスは笑みを浮かべて応じた。


「いや、我々こそ、多忙な貴公の時間を割いていただいたことに感謝せねばなりますまい。さあ、こちらへ」


三人が席に着くと、オッピウスが本題を切り出した。今度は、クリオの時のような脅しや取引ではない。対等な、同盟者への説得だった。


「レピドゥス殿。単刀直入に申し上げよう。我々の計画は、壁に突き当たっている」


オッピウスは、カエサルの新貨幣が市場に与えている影響と、それに対する保守派の抵抗を冷静に説明した。


「バルブスの策は、確かに敵の経済基盤を揺がしている。だが、奴らは我々の金を『ガリアの汚れた金』と蔑み、その力を認めようとしない。元老院において、我々はただの成り上がりの代理人。言葉に重みがないのだ」


「…それで、私に何を望む?」


レピドゥスの声は冷ややかだった。彼の心の内を、オッピウスたちは正確に読んでいた。


レピドゥスはカエサル派ではあるが、その根底にあるのは貴族としてのプライドと、自らの尊厳ディグニタスだ。騎士階級の二人が主導する裏工作の片棒を、喜んで担ぐような男ではない。


今度はバルブスが口を開いた。その声には、実務家ならではの熱がこもっていた。


「我々がローマの裏側で経済の根を腐らせる『二本の矢』(クリオと自分たちを指す)だとすれば、レピドゥス殿、貴公には元老院という公の場で、我々の大義を射抜く『第三の矢』となっていただきたい。貴公の名声と血筋だけが、我々の計画に『合法性』と『権威』という最後の仕上げを施すことができるのです」


彼らは、カエサルが描く未来の構想を語り始めた。


それは、旧弊にまみれた共和政を一度解体し、より効率的で、才能ある者ならば誰でも登用される新しいローマを創造するという、壮大なビジョンだった。


レピドゥスは、黙って聞いていた。彼の頭脳は、恐るべき速度で回転していた。


眼の前の二人は、確かに家柄では自分に劣る。だが、その実務能力とローマの裏社会を掌握する力は本物だ。


そして何より、彼らが語るカエサルの未来像は、魅力的だった。


今の元老院は、小カトのような潔癖すぎる理想家と、己の利益しか考えぬ強欲な老人共に支配され、ゆっくりと死に向かっている。このままでは、ローマそのものが滅びる。


――賭けるべきか?


カエサルが勝てば、自分はその最大の功労者の一人として、新しいローマで絶大な権力を手にできるだろう。だが、もし負ければ? アエミリウスの名は地に落ち、一族は破滅する。


しかし、と彼は思う。何もしなければ、この国と共に沈むだけだ。ならば、この巨大な時代のうねりに、自らの全てを賭けてみる価値はあるのではないか。


長い沈黙の後、レピドゥスは決然と顔を上げた。その目には、もはや迷いの色はなかった。


「…分かった。カエサルの賽がどちらに転ぶか、見届けてやろう。私の名と未来、そしてアエミリウス家の全てを、彼の未来に賭ける。私が、首都ローマにおけるカエサル派の『公的な顔』となろう」


その言葉に、オッピウスとバルブスは、静かに、しかし深く頭を下げた。


この夜、カエサルの勝利を目指す三本の矢は、固く束ねられた。


一本は民衆扇動、一本は経済工作、そして最後の一本は、名門の権威。


それぞれが異なる軌道を描きながら、元老院という巨大な的の中心を射抜くために、今、静かに放たれようとしていた。

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