第十二章:最後の賭け
シルウァヌスが、夜の闇に消えてから、数週間が経過した。
だが、小アジアからの吉報は、まだ届かない。
ローマ軍の陣営は、静かな絶望に支配されていた。
井戸を掘り、水問題は克服したものの、彼らが置かれた状況は、日に日に悪化していた。
兵士たちの顔には、終わりの見えない籠城戦への疲労の色が、死相のように濃く浮かんでいた。
もはや、打つ手は残されていないのか。その重い事実が、カエサルの司令部天幕に、鉛のように垂り込めていた。
「……報告します」
レビルスの声は、乾ききっていた。
彼の前には、カエサルと、生き残った主要な百人隊長たちが、厳しい表情で座っている。
「計算によれば、王宮地区の備蓄は、まだ数ヶ月は持ちます。ですが、それは、何もしなければ、という仮定の上での話です」
レビルスは、一枚のパピルスを広げた。
そこには、この数週間の、日々の小競り合いによる負傷者の数、武具の損耗率、そして、兵士たちの間に広がり始めた疫病の兆候が、無慈悲な数字となって記されていた。
「我々の戦力は、敵の総攻撃がなくとも、内側から、確実に削り取られています。シルウァヌスからの報せを待つ余裕は、我々には、もうありません。このままでは、援軍が到着する前に、我々は戦う力を失ってしまう」
天幕の中は、完全な沈黙に包まれた。
誰もが、その数字が意味する、緩やかな死を、理解していた。
「……ならば、打って出るしかあるまい」
一人の百人隊長が、絞り出すように言った。
「このまま、ここで病に倒れるくらいならば、最後の突撃を……」
その言葉に、他の者たちも、悲壮な覚悟を込めて頷いた。
だが、レビルスは、静かに首を横に振った。
「無駄です。兵力差は五倍。市街地での正面突破は、ただの自殺行為に終わる。計算するまでもありません」
「では、どうしろと言うのだ!レビルス!」
別の百人隊長が、叫んだ。
「お前の計算は、我々に、ただ、ここで死ねと、そう言うのか!」
「いいや」
その時、それまで黙って地図を睨みつけていたカエサルが、静かに顔を上げた。
「レビルスの計算は、まだ終わってはいない。そうだろう、レビルス」
カエサルの視線は、真っ直ぐに、レビルスへと注がれていた。
その瞳には、この絶望的な状況下にあってもなお、副官の頭脳に対する、揺りぎない信頼の色が浮かんでいた。
レビルスは、深く頷くと、地図の上に、一つの駒を置いた。それは、港の入り口にそびえ立つ、ファロス灯台の位置を示していた。
「……残された道は、一つだけです」
レビルスは、この状況を打開する最後の賭けとして、港を支配するファロス灯台の完全確保を決断したのだ。
「敵の主力は、今、我々をこの王宮地区に封じ込めるために、市街地に集中しています。港の守りは、それに比べれば、手薄になっているはず。そこを、我々の持つ、最後の戦力……最も信頼できる精鋭部隊で、強襲するのです」
「だが、それはあまりにも危険な賭けだ」
百人隊長の一人が、うめくように言った。
「もし、失敗すれば、我々は、最後の精鋭さえも失うことになる」
「その通りです」
レビルスは、断言した。
「ですが、これしか、道はない。灯台と、本土を結ぶ連絡橋を完全に制圧し、海への道をこじ開ける。そして、船を出し、ドミティウスか、あるいはアントニウスに、我々の窮状を伝える。それに成功すれば、我々は生き残れる。失敗すれば……」
失敗すれば、全滅。その言葉を、彼は、口にはしなかった。
だが、その場にいた誰もが、その意味を理解していた。
カエサルは、レビルスの計画を、ただ黙って聞いていた。やがて、彼は、静かに、しかし、力強く言った。
「……よかろう。その賭け、乗った。全軍の運命を、その計算に託そう」
カエサルの決断に、レビルスは、奇襲作戦の部隊編成案を提示した。
彼の口から発せられたのは、ボルグやガレウスといった、彼の腹心の仲間たちの名ではなかった。
それは、この軍団が誇る、他の、しかし同様に勇敢で経験豊富な、百人隊長たちの名だった。
「突撃部隊の指揮は、第七軍団のスカエウァに」
「連絡橋の防衛は、第六軍団のバクルスが担当する」
レビルスは、自らが立案した作戦で、信頼する同僚たちを、九死に一生の地へと送り込むことを選んだのだ。
彼の心に、仲間を危険な任務から外した安堵はなかった。
むしろ、その逆だった。
軍議が終わり、百人隊長たちが、それぞれの持ち場へと戻っていく。
天幕には、カエサルとレビルス、二人だけが残された。
「……お前の仲間たちは、この作練には加えんのだな」
カエサルが、ぽつりと言った。
「はい。この作戦が失敗した時、閣下と、クレオパトラ様を、ここから脱出させる最後の盾となるのが、彼らの任務です」
レビルスは、静かに答えた。彼の計算は、常に、最悪の事態を想定している。
「行け」
カエサルは、それだけ言うと、レビルスの肩を、強く叩いた。
「そして、必ず、勝て。死地に赴く、あの勇敢な男たちのために」
レビルスは、深く一礼すると、天幕を後にした。
外では、最後の作戦に参加する兵士たちが、静かに出撃の準備を進めていた。
彼らの顔に、悲壮感はなかった。
ただ、これから始まるであろう、死闘への、研ぎ澄まされた集中力だけが、満ちていた。
レビルスは、彼らの先頭に立つ百人隊長スカエウァの元へと歩み寄った。そして、ただ一言、
「頼んだぞ」
とだけ、告げた。
スカエウァは、無言で、しかし力強く頷いた。
これが、最後の計算。
そして、最後の賭け。ローマの運命は、今、この瞬間に、決まろうとしてしていた。
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