第十章:司令官の首
アレクサンドリアの包囲戦が始まってから、数週間が経過した。
ローマ軍は、レビルスの計算とボルグの指揮によって築かれた堅牢なバリケードに守られ、エジプト軍の猛攻をことごとく跳ね返していた。
だが、それは、血を流し続けることで得られる、あまりにも脆い均衡だった。
一方、その頃。
王宮の奥深くでは、クレオパトラが仕掛けた、もう一つの戦争が、静かに、しかし着実に進行していた。彼女が放った毒の矢は、正確に、その標的の心へと突き刺さっていた。
「……あの女が、私を、将軍の傀儡だと?」
エジプト軍の本営で、クレオパトラの妹、アルシノエ4世は、侍女から伝えられた言葉に、わなわなと震えていた。
姉からの、侮辱に満ちた囁き。
それは、彼女が心の底で感じていた、軍の司令官アキラスへの不満と、自らの野心という火薬庫に、見事に火をつけた。
クレオパトラが投下した火種が功を奏し、敵陣営内でアルシノエ派と司令官アキラスの対立が激化していたのだ。
アルシノエは、自らがプトレマイオス王家の正統な血を引く女王であることを主張し、軍の指揮権を自らに引き渡すよう、アキラスに公然と要求し始めた。
「女子供は、戦場から引っ込んでおれ!」
アキラスは、その要求を一笑に付した。
彼は、兵士たちの支持を背景に、もはや自分がこの国の実質的な支配者であると信じていた。
だが、その傲慢さが、自らの命取りとなることに、彼はまだ気づいていなかった。
その日の夜、アキラスは、自らの天幕で、腹心の将軍たちと祝杯を挙げていた。
カエサルを包囲し、勝利は目前。その油断が、彼の警戒を解いていた。
天幕に、静かに歩み寄る一つの影。アルシノエの腹心である、宦官ガニュメデスだった。
彼の後ろには、彼に忠誠を誓う、数人の屈強な兵士たちが付き従っている。
「……何用だ、ガニュメデス」
天幕の衛兵が、訝しげに問う。
「アルシノエ様からの、アキラス将軍への伝言だ」
ガニュメデスは、静かに答えた。
衛兵が、一瞬、気を許した、その時だった。ガニュメデスの袖から、抜き身の短剣がきらめき、衛兵の喉を深々と切り裂いた。悲鳴を上げる間もなく、衛兵は崩れ落ちる。
「……かかれ」
ガニュメデスの冷たい声と共に、兵士たちが、一斉に天幕の中へと雪崩れ込んだ。
酒に酔い、完全に無防備だったアキラスと彼の将軍たちは、なすすべもなく、その刃の前に斃れていった。
ついにアルシノエの腹心ガニュメデスがアキラスを暗殺し、軍の指揮権を掌握したのだ。
翌朝、エジプト軍の陣営は、大混乱に陥った。司令官が、内輪揉めの末に暗殺された。敵軍の指揮系統は一時的に混乱した。
その報せは、すぐに、王宮地区で籠城するカエサルの元へともたらされた。
「……クレオパトラめ、本当に、やりおったか」
カエサルは、その報せを聞き、感嘆とも、呆れともつかない声で呟いた。
彼は、クレオパトラが何かを企んでいることには気づいていたが、これほど鮮やかに、そして、これほど早く、敵の司令官の首を取るとまでは、予測していなかった。
「好機です、閣下!」
レビルスが進言した。
「敵が混乱している今こそ、打って出るべきです!」
「……いや、まだだ」
カエサルは、静かに首を横に振った。
「蛇は、頭を潰されても、しばらくは動き続ける。そして、多くの場合、より厄介な頭が、新たに生えてくるものだ」
カエサルの予測は、正しかった。
アキラス亡き後のエジプト軍を、ガニュメデスは、驚くべき速度で掌握してみせた。
彼は、アキラスの死は、カエサルの放った刺客によるものだという偽の情報を流し、兵士たちの怒りを煽った。
そして、アルシノエを新たな女王として担ぎ上げることで、軍の大義名分を、より強固なものにしたのだ。
より狡猾なガニュメデスが新司令官となり、ローマ軍に対する包囲は、以前にも増して、強化されることになった。
カエサルたちの陣営に、束の間、差し込んだはずの光は、すぐに、より濃い絶望の影によって、かき消されてしまった。
敵は、一枚岩ではない。
だが、その内紛さえも、彼らを利する結果とはならなかった。
レビルスは、改めて、このアレクサンドリアという戦場の、底知れぬ恐ろしさを感じていた。
ここは、計算通りには、何も進まない。
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