第九章:計算不能の市街戦
アレクサンドリアの夜明けは、エジプト軍の総攻撃を告げる鬨の声によって引き裂かれた。
王宮地区を取り囲む無数の街路から、アキラスが率いる二万の大軍が、ローマ軍が築いたバリケードへと、津波のように殺到した。
「敵が来たぞ!持ち場につけ!」
百人隊長たちの怒声が響き渡る。
静寂の要塞と化していた王宮地区は、瞬く間に、剣と槍がぶつかり合う音、男たちの怒号と悲鳴が渦巻く、混沌の戦場へと姿を変えた。
宮殿の最も高い塔の上から、レビルスは、その戦いの全てを見下ろしていた。
彼の目には、眼下に広がる市街地が、一つの巨大な盤上に見えていた。
そして、その盤上で繰り広げられる戦いは、これまでレビルスが経験してきた野戦とは全く異なる、三次元の市街戦だった。
「ボルグ隊、中央の第一バリケードを死守!敵の突出を許すな!」
「セクンドゥス、左翼の部隊を率いて、あの建物の屋上から敵の側面を突け!」
レビルスは、次々と的確な指示を伝令に飛ばす。
彼の頭脳は、この複雑怪奇な市街地の構造を、驚異的な速度で計算し、最適解を導き出していた。
だが、彼の計算は、すぐに、この戦場特有の、計算不能な変数によって、狂わされていく。
「申し上げます!敵は、広場の地下水路を使って、第二バリケードの背後に出現しました!」
「なんだと!?」
レビルスが持つ地図に、地下水路の存在など記されてはいない。
敵は、地元民しか知らない抜け道を使い、彼の完璧なはずの防衛計画を、いとも容易く覆してくる。
変化し続ける市街地の構造が、彼の計算を嘲笑っていた。
この戦場には、明確な前線など存在しない。
一本の道を進めば、次の角から敵が現れ、建物の窓という窓から、矢や石が降り注いでくる。
そして何よりも、レビルスの計算を狂わせた最大の変数は、市民の敵意だった。彼らは、アキラスの軍団と一体化した、ローマ軍に対する、明確な敵だったのだ。
(……計算、できない)
塔の上で、次々と入ってくる矛盾した報告と、絶え間なく変化する戦況を前に、レビルスは、思わず呟いていた。
彼の築き上げてきた、計算という名の秩序の世界が、アレクサンドリアという、混沌そのもののような戦場によって、根底から揺さぶられていた。
一方、その頃。宮殿の奥深く、クレオパトラの私室では、もう一つの、より静かな戦争が始まっていた。
カエサルが軍事行動で手一杯の中、彼女は宮殿内から動けない自らの状況を打破するため、情報戦を開始していたのだ。
彼女は、幼い頃から自分に仕える、最も信頼の厚い侍女を呼び寄せた。
「……いいわね、カルモス。あなたにしか頼めないことよ」
クレオパトラは、侍女の耳に、囁くように指示を与えた。
「アルシノエ(妹)の侍女の中に、昔、あなたと親しかった者がいたはず。何とかして、その者と接触なさい。そして、こう伝えるのです。『クレオパトラ様は、カエサル様という偉大な方を味方につけられた。それに引き換え、アルシノエ様は、いつまで一介の将軍の言いなりになっていらっしゃるのかしら……』と」
それは、命令ではなかった。だが、姉への強烈な対抗心を持つ、妹アルシノエのプライドを、最も効果的に傷つける、毒の矢だった。クレオパトラは、敵軍の内部崩壊を狙っていたのだ。
その日の戦闘は、夕刻、エジプト軍が一旦兵を引いたことで、辛うじて終わりを告げた。
ローマ軍は、多大な犠牲を払いながらも、なんとか王宮地区の主要な区画を守り抜いた。
夜、レビルスは、自室で、無数の書き込みによってインクで黒くなった市街図を、ただ呆然と見つめていた。
(このままでは、ジリ貧だ。兵士たちは、見えない敵への恐怖と、終わりの見えない市街戦で、確実に消耗していく……)
彼は、気分を切り替えるように、兵站に関する計算を始めた。
王宮地区内の備蓄は、彼の予想以上に潤沢だった。当面の食料や矢、水に不足はない。
だが、彼の計算が弾き出したのは、それよりも、もっと致命的な問題だった。
(我々は、完全に孤立している。ローマにいるオッピウスたちも、ギリシャのドミティウスも、我々がここで包囲されていることさえ、知らないだろう。このままでは、援軍は来ない。いつまでも)
この情報的な孤立こそが、この籠城戦における、最大のアキレス腱だった。
閉じ込められたままでは、どれほど物資があろうと、いずれはじわじわと追い詰められていくだけだ。
何かが、必要だった。
この混沌とした盤上を、再び、自らの計算の支配下に置くための、絶対的な何か。この閉ざされた戦場に、外部の世界へと繋がる、一本の道をこじ開けるための、鍵が。
だが、その鍵が、どこにあるのか。
レビルスは、宮殿のバルコニーから、煌びやかな市街の灯を見下ろした。
それは、まるで、巨大な獣の目のように、彼らを監視しているように見えた。
彼らが生き残るための道は、あるのか。レビルスの計算は、まだ、その答えを、全く導き出せずにいた。
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