第七章:女王の賭け
カエサルの私室は、奇妙な静寂と、濃密な緊張に支配されていた。
百戦錬磨のローマの将軍と、絨毯の中から現れたばかりの若きエジプトの女王。
そして、その二人を、壁際の影のように、計算する男レビルスが見つめている。
「……それで、女王よ」
カエサルは、椅子に深く腰掛けたまま、値踏みするようにクレオパトラを見据えていた。
「お前は、俺に何を差し出し、そして、俺から何を奪おうとしているのか、聞かせてもらおうか」
その問いに、クレオパトラは、臆することなく一歩前へ進み出た。
彼女の瞳には、カエサルの威圧感をものともしない、強い光が宿っていた。
「奪う、などと。とんでもない。私は、貴方様に、そしてローマに、贈り物をするために参りました。それは、私の首を狙う宦官どもが献上した、あの忌まわしい首などではありません。私が差し出すのは、エジプトそのものです」
その言葉は、あまりにも大きく、そして、あまりにも大胆だった。
クレオパトラは、カエサルの前で、自らの正当性を語り始めた。
彼女は、ポティヌスたちが、いかにして父王の遺言を捻じ曲げ、幼い弟プトレマイオス13世を傀儡として担ぎ上げ、自らを王宮から追放したかという非道を、情熱的に語った。
そして、彼女が目指すエジプトの未来像を、驚くほど理路整然と、カエサルに提示してみせた。
「ポティヌスたちは、ただ自らの権力欲のために、この国を私物化しています。彼らの統治の下で、民は重税に喘ぎ、ナイルの恵みである穀物の多くは、彼らの私腹を肥やすために横流しされている。私は、それを正したいのです。父王がそうであったように、ローマの忠実な同盟者として、このエジプトを豊かにし、その富で、ローマの民の腹を満たす。それこそが、私の、そして、この国の民が思う心なのです」
レビルスは、その演説を、冷静に分析していた。
彼女の言葉の一つ一つに、嘘は感じられない。
だが、それ以上に彼が驚嘆したのは、彼女が語る内容の、その緻密さだった。
彼女は、エジプトの年間の穀物生産量、ナイルの氾濫周期、そして、ローマへ輸出可能な量とその利益について、まるで帳簿を読み上げるかのように、正確な数字を挙げてみせたのだ。
(……この女王、ただ者ではない)
レビルスは、彼女が単なる美貌の少女ではなく、カエサルに匹敵するほどの知性と野心、そして覚悟を持った為政者であると計算していた。
彼女は、カエサルという男が、感傷や美貌では動かないことを、完璧に理解している。
彼を動かすことができるのは、ただ一つ。
ローマの国益に、そしてカエサル自身の利益に、どれほどの貢献ができるかという、冷徹な計算だけだ。
クレオパトラは、最後に、カエサルの目を真っ直ぐに見つめて、自らの切り札を切った。
「カエサル様。貴方が、私の正当性を認め、女王の座に戻るための助力を与えてくださるならば、私は、エジプトの国庫の全てを、貴方様の内乱終結のための軍資金として、提供することをお約束します。そして、弟が王位にいる限り決して安定することのない、ローマへの穀物供給を、私が女王として、恒久的に保証いたしましょう」
天幕に、再び沈黙が落ちた。
それは、完璧な提案だった。カエサルが、今、最も欲しているもの。
軍資金と、ローマ市民の支持を繋ぎ止めるための食料。その二つを、彼女は、差し出してみせたのだ。
カエサルは、腕を組み、目を閉じた。
彼の思考は、猛烈な速度で回転していた。
レビルスの報告によれば、ポティヌスたちは信用できない。
若き王は、ただの傀儡。
ならば、この国に打ち込むべき「楔」は、誰か。
(……見つけたぞ)
カエサルは、ゆっくりと目を開けた。彼は、クレオパトラの瞳の中に、ローマの未来を見ていた。
それは、エジプトの富と穀倉地帯を完全に手中に収めるための、最も信頼できる「楔」の姿だった。
この若き女王は、野心と知性を兼ね備え、そして何よりも、ローマと共存することの利益を、誰よりも深く理解している。
彼女ならば、ローマの意のままに動き、そして、この国を安定させることができるだろう。
二人の天才は、互いの利害が完全に一致することを確認したのだ。
「……良いだろう、女王よ」
カエサルは、静かに、しかし、その一言一句に重みを込めて、言った。
「その賭け、乗ってやろう。私が、お前を、エジプトの唯一の女王として認めよう。そして、お前の敵を、我がローマ軍団の敵と見なす」
「……感謝いたします、カエサル様」
クレオパトラの声が、わずかに震えた。
「ただし」
とカエサルは続けた。
「忘れるな。お前がエジプトの女王であるのは、ローマの、そして、この私の利益に適う間だけだということを。もし、その忠誠を違えるようなことがあれば、その時は……」
「その時は、この首を、ポンペイウスと同じように、貴方様へ差し出しましょう」
クレオパトラは、カエサルの言葉を遮り、妖艶な笑みを浮かべて言った。
その場で、固い同盟が結ばれた。
カエサルの心の中では、しかし、もはや計算だけではない、別の感情が静かに湧き上がっていた。
(……この小娘、やりおるわ。知性も、度胸も、そして、その美しささえも、全てが計算され尽くした、完璧な武器だ。久しく忘れていたな。これほどまでに、胸が躍るような交渉は)
冷徹な国家の建築家である彼が、同時に、一人の男として、彼女の大胆不敵な魂そのものに、強く惹きつけられているのを、自覚していた。
レビルスは、その歴史的な瞬間を、息を殺して見守っていた。
彼の計算盤の上に、今、最も予測不能で、そして、最も危険な、新しい駒が、投じられたのだ。
そして、その駒を動かすと決断したことで、彼らは、もはや後戻りのできない、エジプト王家の内乱という、底なしの泥沼へと、その足を踏み入れたのである。
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