第六章:若き獅子たちの見た、英雄の死
ポンペイウス死亡の報がローマに届いてから、数日が過ぎた。
元老院が、カエサルという唯一絶対の権力者の誕生に静かな恐怖を抱いている、まさに同じ頃、三人の若者たちが、ローマ市内の市民たちの反応を、その目で確かめるように歩いていた。
ガイウス・オクタウィアヌスと、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ。
そして、彼らの親しい友人である、ガイウス・マエケナスである。
当初、フォルムを埋め尽くした「カエサル様万歳」という熱狂的な歓声は、すでにどこかへ消え去っていた。
代わりに、街を支配しているのは、より複雑で、そして、どこか落ち着かない、漠然とした不安の空気だった。
「ひどい有様だ……」
アグリッパが、怪訝そうな顔で言った。
「内乱の元凶であったポンペイウス様が死んだのだ。街は、もっとこう、純粋な喜びに満ち溢れているものだと思っていた」
「喜び、ですか」
マエケナスが、その言葉を静かに否定した。
彼は、裕福な騎士階級の出身で、その物腰は柔らかいが、人の心の機微や、街に流れる噂を読み取る能力に、天賦の才を持っていた。
「私がこの数日、市中で耳にするのは、勝利への賛辞だけではありません。むしろ、『これでカエサルを止められる者はいなくなった』という、安堵よりも恐怖に近い囁きの方が多いようです」
市場の一角では、二人の商人が、声を潜めて話し込んでいる。
「これで、ようやく内乱も終わりだな。明日からは、また安心して商売ができる」
ある者は安堵の表情を浮かべていた。
だが、そのすぐ隣の酒場からは、年老いた元兵士の、すすり泣く声が聞こえてきた。
「おお……偉大なるポンペイウス様が、蛮族の手にかかって……なんと、情けない……」
ある者は英雄の死を悼んでいた。
そして、最も多いのは、そのどちらでもない、声なき声だった。
パン屋の行列に並ぶ人々も、テヴェレ川のほとりで網を繕う漁師たちも、その顔に浮かべているのは、喜びでも、悲しみでもない。
ただ、これから一体どうなるのか、という、漠然とした不安の色だった。
多くは「カエサルは、これから一体どうするつもりなのだ」という、漠然とした不安に包まれていた。
「マエケナスの言う通りだ」
オクタウィアヌスは、その光景から目を離さず、静かに言った。
「彼らは、誰の勝利を祝えばいいのか、分からなくなっているのだよ。ポンペイウス様が死んだことで、彼らは、カエサル様という、たった一人の、あまりにも強大すぎる存在と、直接向き合うことになった。そして、恐怖しているのだ。その絶対的な力が、自分たちに何をもたらすのかを」
その時、オクタウィアヌスは、足を止めた。
彼の瞳は、まるで、ローマ市民全体の、心の奥底を見透かしているかのようだった。
「……ようやく、見えたぞ、二人とも。彼らが、心の底から渇望しているものが、何なのか」
オクタウィアヌスは、確信に満ちた声で言った。
「彼らが求めているのは、『勝利』ではない。ましてや、『自由』でも、『共和政の伝統』でもない。彼らが、今、この瞬間に、何よりも欲しているのは、ただ一つ。『確固たる秩序』だ」
二人は、市民が求めているのが勝利ではなく「確固たる秩序」であることを、この瞬間に見抜いていた。
「明日のパンの値段が、今日と同じであるという保証。自分の息子が、突然、戦場へ送られたりしないという確信。そして、法律が、権力者の一存で、ころころと変わったりしないという、絶対的な安定。それこそが、内乱に疲れ果てた彼らが、魂の底から求めているものなのだ。そして、その秩序を与えてくれるのであれば、彼らは、その支配者が、カエサル様であろうと、ポンペイウス様であろうと、あるいは、王と呼ばれる存在でさえ、受け入れるだろう」
その分析は、あまりにも冷徹で、そして、あまりにも真実だった。
元老院の議員たちが、共和政の理念という名目の下で、自らの権力闘争に明け暮れている一方で、市民たちは、ただ、明日の平穏な生活だけを、切望しているに過ぎない。
「……だとしたら」
とアグリッパは、ごくりと唾を飲んだ。
「この国を本当に救う英雄とは、一体、どんな人間なのだろうな」
「それは、最も多くの敵を殺した者ではない」
オクタウィアヌスは、遠い目をして、静かに答えた。
「最も多くの市民に、揺るぎない秩序と、平和な日常を、約束できる者だ」
その言葉は、まるで、未来の自分自身に語りかけるかのように、騒がしいローマの喧騒の中へと、静かに溶けていった。
若き獅子たちは、この日、英雄の死がもたらした、ローマ市民の、本当の渇望の正体を、その本質を、確かにその心に刻み付けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




