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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第四部 エジプト・王家の内乱

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第五章:ローマの三つの戦場

エジプトからの第一報は、ローマに熱狂と安堵をもたらした。


グナエウス・ポンペイウス、死す。


その報せは、市民たちに、ついにこの忌まわしい内乱が終わりを告げるのだという、甘い期待を抱かせた。


フォルムでは、カエサルの名を讃える声が響き渡り、人々は久しぶりの平和の到来を祝って、ささやかな宴を開いた。


だが、その熱狂の裏側で、ローマの真の中心である元老院は、全く別の空気に支配されていた。


「……これで、内乱を早期に終わらせるための、最大の切り札が失われたな」


議場の片隅で、カエサルの代理人、ガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス・バルブスは、眼下で繰り広げられる光景を、冷徹な目で見つめていた。ポンペイウス死亡の報が届いたのだ。


議員たちの顔に浮かんでいるのは、安堵だけではなかった。


その奥底には、隠しようもない、深い恐怖の色が浮かんでいた。


オッピウスとバルブスは、元老院が安堵と同時に、カエサルという唯一絶対の権力者の誕生に恐怖していることを察知していた。


ポンペイウスは、確かにカエサルの政敵だった。


だが、同時に、元老院の貴族たちにとっては、カエサルという規格外の権力を抑制するための「最後の重し」でもあったのだ。


その重しが、今、完全に取り払われた。


もはや、カエサルの意志を阻む者は、このローマには誰もいない。彼は、事実上、王となったのだ。


「あの男を生きて捕らえ、カエサル様が慈悲を示しておれば、アフリカの残党も戦う大義名分を失ったものを……愚かなことをしてくれた」


バルブスは、侮蔑を隠そうともせずに吐き捨てた。


彼の目には、安堵と恐怖がないまぜになった表情を浮かべる議員たちが、愚かで哀れな存在に映っていた。


「これが人間の本質だよ、バルブス」


オッピウスは、静かに応じた。


「彼らは、カエサル個人にも、ポンペイウス個人にも忠誠を誓ってはいない。彼らが信じているのは、ただ『勝利』という名の神だけだ。そして今、その神がカエサル様に微笑み、同時に、カエサル様を唯一絶対の存在へと押し上げてしまったことに、ようやく気づいて震えているのだ」


その日の夜、二人は書斎に戻ると、すぐに今後の対策を協議した。


彼らの戦いは、まだ終わってはいなかった。


むしろ、より困難で、より繊細な、新たな戦いが始まろうとしていた。


二人は、三つの危機への対応と元老院の恐怖を和らげ、首都の混乱を収拾するための必死の政治工作を開始する。


一つ目の戦場は、元老院そのものだ。


「このままでは、元老院の恐怖は、いずれカエサル様への陰謀という、最も危険な形に転化するだろう」


バルブスが、厳しい表情で言った。


「手を打たねばならん。彼らの恐怖を、和らげる手立てを」


「方法は、二つだ」


オッピウスは、指を折りながら答えた。


「一つは、アメ。カエサル様がエジプトから送ってくるであろう莫大な富を、彼らに分配する。公共事業を増やし、彼らが利権を得られる機会を増やすのだ。恐怖を、欲望で上書きさせる」


「そして、もう一つは、ムチだ。我々がこれまで集めてきた、彼らの汚職や、裏取引の証拠。それを、ちらつかせる。カエサル様に逆らえば、その身が破滅するという、もう一つの恐怖を、彼らの心に植え付けるのだ」


二つ目の戦場は、イタリア本土の治安だった。


ローマには、カエサルの代理として、騎兵長官マギステル・エクィトゥムとなったアントニウスが帰還していた。


彼の強権的な統治は、首都の混乱を力ずくで抑え込んではいたが、それは、火薬庫の上で松明を振り回しているような、危うい均衡の上に成り立っていた。


「アントニウスのやり方は、あまりにも乱暴すぎる。市民の不満は、もはや限界だ」


バルブスの前には、アントニウスの統治に対する、市民からの抗議書が山積みになっている。


「だが、今のローマには、彼ほどの劇薬が必要なのも事実だ。我々にできるのは、彼の強権を支持しつつ、その裏で、市民への穀物配給を増やすなどして、不満のガスを抜くことだけだ」


そして、三つ目の戦場は、アフリカにあった。


ポンペイウスの死は、共和派の残党の戦意をくじくどころか、逆に彼らを殉教者の旗の下に、より強く結束させていた。


ラビエヌス、小カトー、そしてメテッルス・スキピオ。彼らは、今や「殺された英雄ポンペイウスの仇を討つ」という、強力な大義名分を手に入れてしまったのだ。


「アフリカの新軍は、今やファルサルスでのポンペイウス軍を、遥かに凌ぐ規模になっているという」


オッピウスが、アフリカからの密偵の報告を読み上げる。


「彼らは、もはやカエサル様個人の敵ではない。『共和政を守る』という理念そのものの、最後の守護者を自認している。これは、極めて厄介な敵となるぞ」


三つの、あまりにも重い課題。


元老院の恐怖、ローマ市民の不満、そして、アフリカで再編された共和派の巨大な軍勢。


その全てに、彼らは、カエサル不在の中で、対処しなければならなかった。


「……まるで、我々は、巨大な船の留守を預かる、ただの船乗りのようだな」


バルブスが、疲れたように言った。


船長カエサルは、ポンペイウスを乗り越えた。だが、船体ローマは、至るところがきしみ、浸水を始めている。そして、水平線の向こうからは、次の巨大な嵐(アフリカの新軍)が、近づいてきている」


「ならば、我々の仕事は、ただ一つだ」


オッピウスは、窓の外の、静まり返ったローマの夜景を見つめながら、静かに言った。


「この船が沈没しないよう、浸水を食い止め、船員(市民)たちの反乱を抑え、次の嵐に備える。船長が、帰ってくる、その日まで」


二人は、言葉なく頷き合った。彼らの孤独で、終わりの見えない戦いは、まだ、始まったばかりだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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