第四章:絨毯の中の女王
その夜、アレクサンドリアの王宮に割り当てられたカエサルの私室は、重い沈黙に包まれていた。
昼間の怒りは、今は静かな思索へと変わっている。
副官のレビルスも、膨大な戦後処理の計算のため、自室に下がっていた。
カエサルは一人、エジプトの内乱という、新たに現れた複雑な盤面を前に、思考を巡らせていた。
(つまらぬ戦いだ。だが、利用できぬこともない)
彼の思考が、エジプトの富とローマの未来を繋ぐ、新たな計算を始めようとした、その時だった。部屋の扉が、控えめに叩かれた。
「何者だ」
カエサルが、鋭く問う。
衛兵が扉を開けると、そこに立っていたのは、一人の屈強な男だった。
彼は、ギリシャ語なまりのラテン語で、カエサルへの贈り物を届けに来たと告げた。
その肩には、見事な装飾が施された、巨大なペルシャ絨毯が、ずっしりと巻かれて担がれている。
(……贈り物、だと?)
カエサルの目に、猜疑の色が浮かんだ。
昼間に、あれほどの「贈り物」を突きつけてきた連中だ。この絨毯の中に、暗殺者が隠れていないと、誰が保証できる。
「待て」
カエサルは、男が絨毯を床に下ろそうとするのを、冷たく制した。
「衛兵、その中を槍で突け。何か潜んでいるやもしれん」
「お待ちください、カエサル様!」
男は、慌てて叫んだ。
「この贈り物は、決して貴方様を害するものではございません!むしろ、貴方様の、最も信頼できる味方となるはずのもの……どうか、貴方様ご自身の目で、お確かめいただきたい!」
その必死の形相に、カエサルは、ふと、奇妙な興味を覚えた。
彼の目は、男の嘘を見抜こうとするかのように、その瞳の奥をじっと見据えた。
そこに宿っているのは、恐怖と、そして、何か途方もない計画を成功させようとする者だけが持つ、熱のような光だった。
「……面白い」
カエサルは、口の端に、かすかな笑みを浮かべた。
「良いだろう。その贈り物が、俺を失望させるものであったなら、お前の命はないと思え。……広げてみせろ」
男は、安堵の息を漏らすと、恭しく絨毯の留め紐を解き、カエサルの足元へと、一気にそれを広げた。
次の瞬間、カエサルの、百戦錬磨の目が、信じられないものを見るかのように、見開かれた。
広げられた絨毯の、その中心から、まるで蝶が蛹から生まれ出るように、一人の若い女性が、しなやかな体躯を現したのだ。
年の頃は、二十歳そこそこ。亜麻色の髪、日に焼けた褐色の肌、そして、何よりも、その瞳。
宝石のように輝くその瞳には、少女のような可憐さと、百戦錬磨の将軍さえも射竦めるような、強い意志の光が同居していた。
彼女は、少し乱れた衣服を直すと、臆することなく、まっすぐにカエサルの前へと進み出た。
そして、ローマの支配者に対してではなく、対等な一人の王として語りかけるように、凛とした声で言った。
「お会いしとうございました、ガイウス・ユリウス・カエサル。私が、エジプトの正統な女王、クレオパトラです」
その夜、カエサルの元に、絨毯に隠れた若き女王クレオパトラが決死の覚悟で現れたのだ。
カエサルは、言葉を失っていた。
それは、彼女の美しさに対してではなかった。
彼は、これまでの人生で、数多の美しい女性を見てきた。
だが、これほどまでに、大胆不敵で、そして、計算され尽くしたやり方で、自分の前に現れた人間は、初めてだった。
(……この小娘、やりおるわ)
この女王は、自分こそが、カエサルにとって、エジプトにおける、最も価値のある取引相手であることを、この劇的な登場によって、何よりも雄弁に証明してみせたのだ。
「……面白い」
カエサルは、今度は、声に出して言った。
「女王よ。その度胸、気に入った」
彼は、傍らに控える百人隊長に、静かに命じた。
「副官のレビルスを呼べ。急がせろ」
カエサルは、これが単なる一夜の会談ではない、ローマとエジプトの未来を決する、重要な交渉の始まりになることを、瞬時に理解した。
そして、その交渉の場に、自らの「頭脳」であるレビルスの計算は、不可欠だった。
数分後、レビルスが、何事かと駆けつけてきた。そして、部屋の中に立つ、若き女王の姿を見て、絶句した。
「……閣下、これは……?」
「見ての通りだ、レビルス」
カエサルは、楽しそうに言った。
「どうやら、我々の計算盤の上に、最も予測不能で、そして、最も面白い駒が、自ら飛び込んできたらしい。さて、女王よ。お前が、俺に何を差し出し、そして、俺から何を奪おうとしているのか、聞かせてもらおうか」
クレオパトラは、その言葉に、勝利を確信したかのように、妖艶な笑みを浮かべた。
二人の天才の、歴史的な会見は、こうして始まった。
レビルスは、その一部始終を、息を殺して見守るしかなかった。彼の計算が、今、全く新しい変数と、向き合おうとしていた。
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