第六章:若き獅子たちの登場
その日、ローマは熱病に浮かされているようだった。
フォルム・ロマヌムへ向かう道すがら、十三歳になったばかりのマルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、街に満ちる奇妙な熱気を肌で感じていた。
裕福な商人たちが経営する両替商の前では、日に日に価値を失っていく旧い銀貨を手に、不安げな顔で囁きあう貴族たちの姿があった。
一方で、パン屋や酒場からは、ガリアから流入したカエサルの新しい貨幣のおかげで借金が軽くなったと笑い合う、平民たちの陽気な声が聞こえてくる。
アグリッパは、道端で言い争う親子を見た。父親は、過去の戦役で片足を失った歴戦の退役兵だ。
息子は、カエサルの名の下で募兵されている新しい軍団に志願し、約束された土地を得たいのだと叫んでいる。
父親は、国家への裏切りだと息子を罵り、息子は、生活も保障しない国家に何の忠誠があるのかと反論している。それは、ローマ全土が抱える、痛ましい亀裂の縮図のようだった。
希望と不安。賞賛と呪詛。二つの相反する感情が、まるで熱風と冷たい隙間風のように、ローマの大路小路を吹き荒れている。
「奇妙な街だ」
アグリッパは隣を歩く親友に呟いた。
「誰もがカエサルの名を口にする。ある者は救世主として、ある者は国賊として。だが、そのどちらも、どこか現実味がない。まるで遠い嵐の話をしているようだ」
「嵐は、もうここに来ているからさ」
応えたのは、ガイウス・オクタウィアヌス。カエサルの大甥にあたる、わずか十二歳の、病的なほど肌の白い少年だった。彼は、街の喧騒には目もくれず、ただ前を見据えている。
「人々はまだ、風の匂いが変わったことに気づいていないだけだ」
そう、今日、彼らはその嵐の中心に一歩足を踏み入れる。
オクタウィアヌスが、亡き祖母ユリア――カエサルの実姉――の葬儀で、追悼演説を行うのだ。
広場は、黒衣をまとった人々で埋め尽くされていた。
元老院議員、騎士階級の商人、そして多くの市民。その視線が一斉に、演壇に立った十二歳の少年に注がれる。アグリッパは、群衆の中から固唾を飲んでその姿を見守った。
「…偉大なる我が祖母ユリアは、カエサルの姉であっただけでなく、我らローマ市民の母でもありました。彼女の慈愛は、血縁者のみならず、このローマに生きる全ての人々に注がれていたからです…」
その声は、まだ少年のあどけなさを残しながらも、不思議なほど明瞭に、広場の大理石に響き渡った。
アグリッパの予想に反し、言葉に激情も、派手な美辞麗句もない。ただ、静かで、理路整然としていて、聞く者の胸に染み入るような説得力があった。
アグリッパは演説の内容そのものよりも、友人がその言葉で「何を成し遂げているか」を冷静に観察していた。
ざわついていた群衆の心が、少しずつ、しかし確実に、ユリウス氏族への共感と敬意に染め上げられていくのを、肌で感じていた。
彼は、元老院議員たちの顔を盗み見た。
キケロが、どこか憂いを帯びた表情で静かに聞き入っている。
小カトの一派は、侮蔑の表情を浮かべているが、その目は演壇の少年から離せないでいる。
これは、人の心を操る魔法だ、と彼は思った。いや、魔法ではない。もっと冷たく、もっと精密な、計算され尽くした技術だ。
演説が終わり、万雷の拍手の中を二人が退場すると、アグリッパは興奮を隠せない様子で言った。
「見事なものだったぞ、オクタウィアヌス。お前の言葉で、元老院の頑固な老人共の顔色が少し変わったのを、俺は見た」
「ありがとう、アグリッパ。だが、私の言葉が人の心を動かしたのではない。祖母の遺した功績と、大叔父上の威光が、そうさせただけだ」
オクタウィアヌスは、涼しい顔でそう答えた。
その横顔には、賞賛に浮かれる様子は微塵もない。彼は、自らの演説がもたらした政治的な効果を、まるで数学の問題を解くかのように、冷徹に分析しているだけだった。
アグリッパは、その友の底知れない器の大きさに、改めて畏敬の念を抱いた。
「…お前は、いつもそうだ。まるで、この世の全てを盤上の石か何かのように見ている」
「それ以外に、何があるというんだ?」
オクタウィアヌスの静かな問いに、アグリッパは言葉を失った。彼こそが、いずれこの熱病に浮かされたローマを背負って立つ器だと、確信していた。
その夜。
オクタウィアヌスの母アティアは、ガリアにいる叔父カエサルへ宛てて、一通の手紙を書いていた。
『――本日、我が息子オクタウィアヌスは、母上の葬儀で見事な追悼演説を成し遂げました。その姿には、ユリウスの血を引く者としての確かな威厳が宿っておりました。叔父上がガリアでローマの未来を切り開いておられる間にも、ここローマでは、その未来を受け継ぐべき新しい芽が、確かに育っておりますことを、ご報告申し上げます…』
アティアは、その手紙を丁寧に封をすると、信頼する伝令に託した。
彼女はまだ知らない。その手紙が、歴史上最も偉大な独裁者に、自らの後継者を初めて意識させる、重要な一通となることを。
ローマでは、次代を担う若き獅子たちが、静かにその牙を研ぎ始めていた。
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