第三章:王家の内乱
ポンペイウスの首が運び去られた後、カエサルの天幕には、凍てつくような怒りの余韻が残っていた。
兵士たちは、主君の無言の激怒を肌で感じ、息を殺して持ち場を守っている。
アレクサンドリアの喧騒が、まるで嘘のように遠く聞こえた。
カエサルの壮大な和平構想は、エジプト宮廷の浅はかな裏切りによって、完全に砕け散った。
だが、彼は、ただ怒りに身を任せるような男ではない。
その思考は、すでに次の一手へと、冷徹に切り替わっていた。
「レビルス」
カエサルが、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、副官の名を呼んだ。
「はっ」
「この街の、本当の顔を暴き出せ」
カエサルは、地図の上に広げられたアレクサンドリアの市街図を指し示した。
「ポティヌスという宦官が、全ての実権を握っているようには見えん。あの男の背後には、誰がいる?そして、あの男が恐れているものは、何だ?この宮廷の内情を、金の流れを、そして、人間関係の全てを、洗いざらい計算し尽くせ。我々は、蛇の巣に足を踏み入れたのだ。その蛇の、本当の頭がどこにあるのかを知らねば、次の一手は打てん」
それは、レビルスにとって、新たな戦いの始まりだった。
彼の戦場は、もはや平原でも、城壁でもない。
嘘と陰謀が渦巻く、この巨大な都市そのものが、彼の戦場となったのだ。
レビルスは、すぐさま行動を開始した。
彼は、自らが率いる部隊の中から、最も信頼できる者たちを選び出した。
エルフの斥候シルウァヌスには、その超人的な感覚で、王宮地区の警備体制と、廷臣たちの動きを探らせた。
ドワーフのボルグには、屈強な兵士を率いて、カエサル軍が駐留する地区の守りを固めさせ、不穏な動きを監視させた。
そして、レビルス自身は、一人の目立たない書記官に変装すると、アレクサンドリアの心臓部、港の市場や、両替商が軒を連ねる地区へと、自ら足を運んだ。
この都市は、情報の洪水だった。
ギリシャ語、エジプト語、ヘブライ語、そして、ローマのラテン語。
様々な言葉が飛び交い、人々の欲望が、むき出しのまま渦を巻いている。
レビルスは、その混沌の中から、必要な数字と言葉だけを、冷静に拾い上げていった。
彼は、一人の情報屋を金で雇った。そして、彼から、驚くべき事実を聞き出すことに成功する。
「この国は、二つに割れているのですよ」
情報屋は、周囲を気にしながら、声を潜めて語った。
「表向きの王は、まだ幼いプトレマイオス13世様。ですが、実権を握っているのは、あのお若い王を操る、宦官のポティヌスと、軍を掌握する将軍アキラス。彼らが、ポンペイウス様の首をカエサル様に献上したのです」
「……もう一方の勢力とは、誰だ」
レビルスの問いに、情報屋は、さらに声を低くした。
「先王の娘君にして、今の王の姉上であられる、クレオパトラ様です」
レビルスの脳内で、バラバラだった情報が、一つの線として繋がり始めた。
「彼女は、ポティヌスたちによって王宮を追放され、今はシリアとの国境近くで、自らの軍勢を集めておられる、と。ポティヌスたちが最も恐れているのは、そのクレオパトラ様が、ローマの力を借りて、女王の座に返り咲くことです。彼らが、ポンペイウス様の首を差し出した本当の理由は、カエサル様のご機嫌を取り、クレオパトラ様に味方させないため……」
レビルスは、エジプト宮廷の内情を探り、実権を握る宦官ポティヌスと、追放された女王クレオパトラの内戦状態を突き止めたのだ。
その夜、レビルスは、全ての調査結果をまとめ、カエサルの天幕で報告を行った。
「……以上が、私の計算が導き出した、この国の現状です。我々は、ポンペイウスを追ってきたつもりが、いつの間にか、エジプト王家の内乱の、まさにその中心に立たされていた、というわけです」
カエサルは、腕を組み、黙ってその報告を聞いていた。
やがて、彼は、フッと、乾いた笑みを漏らした。
「……なるほどな。あの宦官どもは、俺の歓心を買うために、ポンペイウスの首を差し出したと、本気で信じていたのか。愚かなことだ」
カエサルの目は、もはや、このエジプトという国を、一つの巨大な盤上遊戯の盤として捉えていた。
そして、その思考は、エジプト一国に留まらず、東方世界全体の、未来の姿を描き始めていた。
「レビルス」
カエサルは、静かに、しかし、その瞳に壮大な構想の色を浮かべて、語り始めた。
「ポンペイウスの死は、一つの時代の終わりだ。彼が築き上げた、有力者個人との恩義で繋がる、曖昧で、不安定な東方の支配体制は、彼の死と共にもろくも崩れ去るだろう。残されたのは、力の空白だ」
「……閣下のお考えは?」
「再編成だ」
カエサルは、断言した。
「東方の国々を、ローマ国家の、恒久的で、揺るぎないシステムの一部として、完全に組み込み直す。有力者個人の気まぐれに左右されるのではなく、ローマの法と秩序の下に、だ。そして、ポンペイウスが図らずも用意してくれたこのエジプトという舞台は、その壮大な計画の、最初の試金石となる」
「そのためには、この国に、我々の意のままに動き、ローマへの穀物供給を滞りなく行う、強力な『楔』を打ち込む必要がある。ポティヌスは、ポンペイウスを殺した男だ。論外だ。となれば、選択肢は二つ。ポティヌスに操られている若き王を、我々がさらにその上から操るか。あるいは……」
カエサルの言葉は、もはや、このエジプトの内乱の仲裁という次元を超えていた。
それは、ローマの未来そのものを設計する、国家の建築家としての、壮大な宣言だった。
「……ですが、閣下」
とレビルスは、冷静に問うた。
「その『楔』となるべき人物は、どちらなのですか?まだ見ぬ女王に賭けるのは、危険すぎます。若き王を傀儡とする方が、確実では?」
「そうだな」
カエサルは、地図を睨みつけ、思案に暮れた。
「今の我々には、まだ、その最も重要な駒の、顔も、能力も見えていない……」
彼らは、まだ気づいていなかった。
その最も重要な駒が、今まさに、彼らの計算を超えた方法で、この盤上に出現しようとしていることを。
そして、その駒が、今夜、彼らの前に、その姿を現そうとしているということを。
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