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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第四部 エジプト・王家の内乱

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第二章:英雄の首

数日後、カエサルとレビルスが率いる精鋭部隊を乗せた船団は、エジプトのアレクサンドリア港へと入港した。


「……まるで、別の世界のようだな」


船の舷側げんそくに立ち、眼下に広がる光景を見つめていたレビルスが、思わず感嘆の声を漏らした。


大理石で造られた巨大なファロス灯台が天を突き、港には見たこともない形の交易船がひしめき合い、街は様々な人種の喧騒と、香辛料のむせ返るような匂いに満ちていた。


ローマのどの都市とも、彼がこれまで戦ってきたガリアのどの集落とも、全く異質の光景が広がる場所だった。


彼の隣で、カエサルは何も言わなかった。


だが、その目は、レビルス以上に鋭く、そして貪欲に、この古代世界の中心地の、圧倒的なまでの富と混沌を観察していた。


彼らを迎えたのは、エジプト王家の宰相を名乗る、宦官ポティヌスだった。


彼は、豪奢な衣装を身にまとった廷臣たちを引き連れ、カエサルの前に深々と頭を下げた。


その態度は、過剰なまでにへりくだっており、見る者に不快感さえ覚えさせるものだった。


「偉大なるローマの勝利者、ガイウス・ユリウス・カエサル様。プトレマイオス王家は、心より閣下のご来訪を歓迎いたします」


ポティヌスは、蛇のような、ねっとりとした声で言った。


カエサルは、その芝居がかった歓迎には答えず、ただ、冷徹な目で彼を見据え、単刀直入に用件を切り出した。


「グナエウス・ポンペイウスは、どこにいる」


その問いに、ポティヌスは、待っていましたとばかりに、顔中に卑屈な笑みを浮かべた。


「おお、ポンペイウス様のことでしたら、ご心配には及びません。我々が、閣下のために、全てをご用意いたしました」


彼が合図をすると、二人の奴隷が、銀の盆に載せられた、紫の布で覆われた何かを、カエサルの前へと運んできた。


天幕に、廷臣たちの期待に満ちた視線が集まる。


彼らは、自分たちが用意したこの「贈り物」が、偉大なるカエサルを喜ばせ、エジプトに多大な恩恵をもたらすだろうと、固く信じていた。


ポティヌスは、芝居がかった仕草で、ゆっくりとその布を取り払った。


その下に現れたものを見て、天幕にいたカエサルの兵士たちは、息を呑んだ。


レビルスもまた、全身の血が凍りつくのを感じた。


盆の上に載せられていたのは、塩漬けにされ、生前の面影を不気味なほどに残した、一つの首だった。


長い間ローマの空にその名を轟かせた英雄、グナエウス・ポンペイウス・マグヌスの、首だった。


カエサルとレビルスは、エジプトのアレクサンドリアに上陸し、彼らを迎えたエジプト宮廷は、恭順の証としてポンペイウスの首を差し出したのだ。


「閣下。これで、忌まわしき内乱も、完全に終わりでございます。我々は、閣下の偉大なる勝利に、ささやかながら、花を添えさせていただいたまで」


ポティヌスが、得意満面に言った。


だが、彼が期待した反応は、どこからも返ってこなかった。


カエサルの顔から、全ての表情が消え失せていた。喜びも、安堵も、驚きさえも。


彼は、ゆっくりとその首から顔を背けた。


そして、誰も見ていない方向を向き、トーガの裾で、そっと目元を覆った。彼の肩が、かすかに震えているのを、レビルスは見逃さなかった。カエサルは、泣いていたのだ。


(俺は、この男を赦すために、ここまで来たのだ)


カエサルの心の中で、誰にも聞こえない声が響く。


(この男を、再びローマの第一人者として迎え入れ、共にこの国を立て直すことで、この内乱を終わらせるために。その俺の計算を、俺の慈悲を、貴様ら蛮族が……!)


それは、かつての盟友であり、娘婿でもあった男の死を悼む、個人的な感情だけではなかった。


それは、ローマという国家の尊厳そのものが、自分たちの都合でローマの執政官を殺すという、エジプトの浅はかな宮廷政治によって、無残に踏みにじられたことに対する、絶対的な支配者としての、冷徹な怒りだった。


そして何よりも、内乱を最も穏便に終わらせるための、最大の機会を永遠に奪われたことへの、深い失望だった。


やがて、カエサルはゆっくりと振り返った。彼の目元には、涙の痕跡はなかった。


だが、その瞳に宿る光は、絶対零度の氷のように、静かで、そして恐ろしい怒りに満ちていた。


「……下がらせろ」


カエサルが、地を這うような、低い声で命じた。


「そ、それを、片付けろ……!」


その声に含まれた、抑えきれない怒りの響きに、ポティヌスは、初めてことの重大さに気づいた。


彼の顔から、卑屈な笑みが消え、恐怖の色が浮かび上がる。


彼は、自分たちが、致命的な計算違いを犯したことを、ようやく悟ったのだ。


奴隷たちが、狼狽しながら、英雄の首を運び去っていく。


カエサルの天幕には、気まずい沈黙だけが残された。


レビルスは、その一部始終を、カエサルの傍らで見つめていた。


彼は、この瞬間に、全てを理解した。ポンペイウスの死は、この内乱の終わりではなかった。


むしろ、始まりだったのだ。共和派の旗印は、今や「殺された英雄」という、より強力な殉教者の衣をまとった。


アフリカのラビエヌスたちが、この報せを聞けば、どれほど復讐の炎を燃え上がらせるだろうか。


そして、何よりも、目の前の主君の怒り。


それは、このエジプト王家そのものを、根底から揺るがしかねない、危険な嵐の前触れだった。


カエサルの壮大な和平構想は、今、このアレクサンドリアの地で、完全に砕け散った。


そして、その代わりに、誰も予測できなかった、新たな内乱の火種が、くすぶり始めたのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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