エピローグ
ファルサルスの戦いが終わった後の平原は、死の沈黙に包まれていた。
数時間前まで、ここは数万の男たちの雄叫びと、剣戟の音が響き渡る舞台だった。
だが今、そこに広がっているのは、おびただしい数の死体と、打ち捨てられた武具、そして、勝者と敗者の区別なく漂う、血の匂いだけだった。
カエサルは、丘の上からその光景を、静かに見下ろしていた。
彼の顔に、勝利の熱狂はなかった。
あるのは、この凄惨な光景を生み出してしまったことへの、深い哀しみと、それでも、この内乱を終わらせねばならないという、重い責任感だけだった。
やがて、彼の前に、降伏した二万を超えるポンペイウス軍の兵士たちが、武装を解かれて引き立てられてきた。
彼らは、皆、死を覚悟した顔で、うなだれていた。デュッラキウムでのラビエヌスの行いを知っている彼らは、自分たちもまた、見せしめとして処刑されるのだろうと信じていた。
だが、カエサルが発した言葉は、彼らの予想を、完全に裏切るものだった。
「顔を上げよ、ローマの兵士たち」
その声は、静かだったが、平原の隅々にまで響き渡った。
「お前たちは、勇敢に戦った。自らが信じるもののために、その命を賭して戦った。その誇りを、私は奪いはしない」
カエサルは、ゆっくりと彼らの間を歩きながら、語りかけた。
「この戦いは、もはや終わりだ。同じローマ市民同士が、これ以上、血を流す必要はない。お前たちは、もはや敵ではない。ただの、祖国を同じくする、同胞だ」
ファルサルスで勝利したカエサルは、降伏した敵兵たちに寛大な処置を下す。
彼は、捕虜となった全てのローマ市民兵を、その場で解放すると宣言したのだ。
希望する者は、自軍に加わることを許し、故郷へ帰りたい者には、そのための路銀さえ与えた。
その、あまりにも寛大な処置に、降伏した兵士たちは、ただ、涙を流すことしかできなかった。
彼らは、武器を捨て、カエサルの名の下に、新たな忠誠を誓った。
その頃、陥落したポンペイウス軍の陣営では、マルクス・アントニウスが、勝利の熱狂の真っただ中にいた。
「見ろ!ポンペイウスの奴が飲もうとしていた、年代物のワインだぞ!今夜は、俺たちが飲むにふさわしい!」
彼は、部下たちと共に、勝利を声高に祝い、略取した豪華な食事を囲んでいた。
だが、その目は、ただの酔っ払いのそれではない。
彼は、兵士たちと歓喜を分かち合いながらも、冷静に陣営内の制圧状況を把握し、降伏した敵将のリストを作成させていた。
彼の戦いは、常に情熱的であり、そして、どこまでも現実的だった。
攻城戦の専門家であるガイウス・トレボニウスは、祝宴の輪には加わらなかった。
彼は、陥落したポンペイウス軍の陣営で、敵味方の区別なく、負傷兵たちの手当てを指揮し、二万人を超える降伏兵の武装解除と管理を、冷静沈着に進めていた。
彼の仕事は、常に冷静で、現実的だ。勝利の熱狂よりも、戦後処理という、膨大で困難な実務を、彼は黙々と遂行していた。
そして、海岸線近くにいた艦隊司令官デキムス・ブルトゥスは、陸での勝利の報を聞くと、すぐに部下たちに命令を下していた。
「喜んでいる暇はないぞ!ポンペイウスは、必ず海から逃げる!今すぐ、出航可能な全ての船をリストアップし、追撃の準備を整えろ!食料を、満載しておけ!」
彼の頭の中では、すでに、次なる戦場である、海の上での追撃戦が始まっていたのだ。
レビルスは、そんな仲間たちの姿を遠くに見ながら、一人、静かに戦場を歩いていた。
彼の足元には、おびただしい数の死体が転がっていた。
自軍の損害は、わずか二百人強。
それに対して、敵軍は一万五千が戦死し、二万以上が降伏した。
彼の計算は、完璧だった。
そして、その結果として、カエサル軍は、圧倒的な勝利を手にした。
だが、その計算がもたらした凄惨な結果と、それでも得られた勝利の重さを、彼は今、改めて全身で受け止めていた。
(これが……内乱か)
ガリアでの戦いは、確かに過酷だった。
だが、それは異民族との、生存を賭けた「戦争」だった。
しかし、今、目の前に転がっているのは、同じ言葉を話し、同じ神を信仰する、ローマの同胞たちの亡骸だ。
勝利の歓喜など、どこにもなかった。
ただ、自らの手が、このおびただしい同胞の死を生み出したという、消えることのない事実だけが、彼の心に重くのしかかっていた。
その時、伝令がカエサルの元へと駆け込んできた。
「申し上げます!ポンペイウスは、小舟に乗って、エジプトの方角へと逃亡した模様!」
その報せに、カエサルの目が、再び鋭い光を取り戻した。
「……そうか。まだ、終わってはいなかったか」
この内乱の元凶であるポンペイウスが、まだ生きている。彼を捕らえない限り、この戦争に、本当の終わりは訪れない。
カエサルは、レビルスの方へと向き直った。
「レビルス。休んでいる暇はないようだ。船の準備を。我々は、エジプトへ向かう」
ポンペイウスを追うため、カエサルの戦いは次なる舞台、エジプトへと続いていく。
レビルスは、無言で、しかし力強く頷いた。彼の個人的な感傷に浸っている時間は、終わったのだ。彼の計算は、まだ、この戦争を終わらせるために必要とされている。
ファルサルスの平原に、夕闇が迫っていた。
死者たちの魂が見守る中、カエサルとレビルスは、次なる戦場へと、その視線を向けていた。
ローマの運命を賭けた、彼らの長い旅は、まだ、始まったばかりだった。
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