第二十一章:終わらない戦い
ファルサルスの平原が、カエサル軍の勝利の鬨の声に染まっていく。
その喧騒を、司令部の天幕の中で、グナエウス・ポンペイウスは、虚ろな耳で聞いていた。
彼は、椅子に座ったまま、身じろぎ一つしない。まるで、魂が抜け落ちた、石像のように。
やがて、カエサル軍の先鋒が、自軍の陣営になだれ込んでくる音が聞こえ始めた。
その瞬間、石像だったポンペイウスは、初めて動いた。
彼は、おもろに立ち上がると、司令官の証である緋色のマントを脱ぎ捨て、見事な装飾が施された鎧を外した。
そして、名もなき一兵卒が着るような、粗末なチュニックを身にまとうと、誰にも告げることなく、天幕の裏口から、ただ一人、姿を消した。
ローマ最高の栄誉と、市民の歓声をその一身に受けた英雄、ポンペイウス・マグヌス。
その男は、今、自らの軍団と、ローマの運命そのものを、この地に置き去りにして、ただの逃亡者となったのだ。
同じ頃、陣営の別の区画では、元老院議員たちが、この世の終わりのようなパニックに陥っていた。
数時間前まで、彼らは戦後の利益分配に胸を躍らせ、勝利の美酒に酔いしれていた。
だが、その夢は、カエサルの軍靴の音によって、無慈悲に踏み砕かれた。
「ポンペイウス様が……逃げられたぞ!」
その一言が、彼らの最後の理性を断ち切った。
彼らは、自らの地位も、誇りも、何もかもかなぐり捨て、ただ生き延びるためだけに、我先にと逃げ出した。
豪華な食器や、ワインの樽がひっくり返り、天幕は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
彼らは、互いを押しのけ、弱い者や年老いた者を見捨て、ただひたすらに、陣営の出口へと殺到した。
だが、その混乱の戦場で、ただ一人、別の動きを見せる男がいた。
ティトゥス・ラビエヌス。
彼は、敗走の奔流が始まった瞬間、全てを悟った。
ポンペイウスが指揮を放棄し、軍団が崩壊したことを。
自らの最強部隊が敗れ、全てが砕け散ったことを悟ったのだ。
だが、彼の足は、逃げる兵士の波に逆らうように、戦場を駆けていた。
彼が向かったのは、ポンペイウスの本営ではない。
自らが率いていた、突撃魔術師団の残存部隊と、まだ組織的な抵抗を続けている部隊が集まる場所だった。
「聞け!ポンペイウス様は、すでにここにはおらん!」
ラビエヌスは、混乱する兵士たちを一喝した。
「だが、戦いはまだ終わっていない!ここで犬死にするか、それとも、俺と共に、次なる戦場を目指すか!選ぶのは、お前たち自身だ!」
彼の声には、不思議な力があった。
それは、希望を与える言葉ではない。
だが、絶望の淵にある人間を、無理やり立たせる、鋼のような意志の力だった。
ラビエヌスは、最後まで戦場に残り、生き残った兵をまとめると、ポンペイウスとは別のルートで決死の敗走を開始する。
彼の周りには、数千の兵士たちが、新たな核となって集結し始めていた。
それは、もはや軍団と呼べるようなものではなかったが、それでも、まだ戦うことを諦めていない、最後のローマ兵たちの、巨大な集団だった。
彼らは、ポンペイウスが逃げた北ではなく、南を目指した。
地中海へと向かう、最も険しい山道。カエサルの追撃が、おそらく及ばないであろう、茨の道。
数日後、彼らは、ボロボロの姿で、ついに海岸線へとたどり着いた。
そこに、奇跡的に、数十隻の船が残っていた。
「……将軍」
生き残った百人隊長の一人が、かすれた声で尋ねた。
「我々は、どこへ?」
ラビエヌスは、ギリシャの地を、そして、その向こうにあるであろうローマに、静かに背を向けた。そして、南の海を、アフリカ大陸があるはずの水平線を、じっと見据えた。
「まだ終わらん」
ラビエヌスは、吐き捨てるように言った。彼の声は、静かだったが、その場の全ての兵士の耳に、突き刺さるように響いた。
「この戦いは、まだ終わってはいない。我々の戦いは、まだ続く。アフリカには、まだ我々の仲間がいる。ユバ王がいる。我々はそこへ行く。そして、もう一度、軍を立て直す。ローマのために、そして、我々が仕えるべき共和政のために」
彼は共和政派最後の拠点であるアフリカ属州へと渡り、この絶望的な戦いを続けることを固く決意したのだ 4。
その瞳に、どのような感情が宿っていたのか、兵士たちには分からなかった。ただ、その凄まじいまでの意志の力だけが、彼らに、まだ戦いは終わっていないのだと、信じさせた。
船は、静かに岸を離れた。ラビエヌスと、数千の敗残兵を乗せて。彼らが目指す先に、希望など、どこにもないのかもしれない。だが、彼の戦いは、まだ、終わってはいなかった。
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