第二十章:崩壊
「見ろ!ラビエヌス様が、カエサルの右翼を打ち破ったぞ!」
ポンペイウスの本営では、元老院議員たちが、まるで観劇でもするように、戦況の推移に歓声を上げていた。
彼らの目には、ラビエヌスの突撃魔術師団が敵を蹂躙し、カエサル軍が後退していく、輝かしい光景だけが映っていた。
勝利は、もはや目前。
彼らは、高価なワインを酌み交わし、互いの健闘と、輝かしい未来を祝して杯を上げた。
その輪の中心で、グナエウス・ポンペイウスは、静かに戦場を見つめていた。
彼の表情は、周囲の熱狂とは裏腹に、硬いままだった。
彼は、カエサルという男の恐ろしさを、誰よりも知っていた。あの男が、これほど単純な敗北を受け入れるはずがない、と。
そして、その予感は、最悪の形で現実のものとなった。
突如として、カエサル軍の後方から、新たな部隊が出現した。第四列。
その存在に、ポンペイウスは気づいていなかった。
その部隊が、側面からラビエヌスの精鋭たちを、まるで草を刈るように、いとも容易く蹂躙していく。
「……何だ、あれは」
ポンペイウスの口から、声にならない声が漏れた。
自軍最強の切り札が崩壊していく光景を、彼はただ呆然と見つめることしかできなかった。
信じられない。あのラビエヌスが?あの最強の魔術師団が?なぜ。どうして。
彼の頭の中は、疑問符で埋め尽くされ、完全に思考が停止していた。
ラビエヌスの部隊が壊滅し、敗走を始める。
その光景が、彼の瞳に映った瞬間、ポンペイウスの中で、何かが、音を立てて砕け散った。
(……負けた)
まだ、中央軍も、右翼も、健在だった。
兵力は、依然としてこちらが圧倒的に優勢だった。
だが、彼の心は、完全に折れてしまっていた。
自らが最も信頼していた切り札が破られたという事実が、彼の百戦錬磨の精神を、根元からへし折ったのだ。
自軍最強の切り札が崩壊したのを見たポンペイウスは、茫然自失となった。
彼は、周囲の元老院議員たちが、何事かと騒ぎ始めているのも耳に入らない様子で、静かにその場を離れた。
そして、誰に言うでもなく、「陣営の守りを固めよ。後のことは、よしなに……」と、意味不明の言葉を呟くと、指揮を放棄し、一人、巨大な司令部の天幕へと引きこもってしまった。
その、最高司令官による、あまりにも無責任な職務放棄。
それが、ローマ最強を謳われた軍団の、崩壊の引き金となった。
「総攻撃!」
丘の上で、敵の切り札が崩壊し、そして、ポンペイウス軍の指揮系統が麻痺した一瞬の隙を、カエサルが見逃すはずはなかった。
彼の号令一下、これまで防戦に徹していたアントニウスの左翼と、ドミティウスの中央軍が、一斉に反撃に転じた。
さらに、ラビエヌスの部隊を壊滅させた第四列の精鋭たちが、その勢いのままに、今やがら空きとなったポンペイウス軍中央の側面へと、牙を剥いた。
司令官を失った本隊は、前面からの総攻撃と、側面に回り込んだ第四列の猛攻を受けた。
「ポンペイウス様からの命令はまだか!」
「左翼はどうなった!なぜ、援護がない!」
ポンペイウス軍の百人隊長たちは、必死に兵士たちを鼓舞しようとするが、もはや無駄だった。
司令官を失い、最強の仲間が敗れ去ったという恐怖に支配された兵士たちは、もはや統制の取れた軍団ではなかった。
そして、ついに、一人の兵士が、武器を捨てて逃げ出した。
その一人の行動が、数万の兵士たちの、最後の理性を断ち切った。
一人、また一人と、逃亡者が生まれ、それはやて、巨大な雪崩となって、全軍へと広がっていった。
兵数で勝りながらも完全に崩壊、大敗走を始める。
かつて、その名を聞けば、東方の王たちさえも震え上がったという、無敵のポンペイウス軍団。
その威容は、もはやどこにもなかった。
あるのは、ただ、我先にと逃げ惑う、恐怖に駆られた人間の群れだけだった。
カエサル軍は、その敗走する大軍を、彼らの陣営まで執拗に追撃した。
ファルサルスの平原は、武器を捨て、我先にと逃げ惑う兵士たちの混乱と、勝利を確信した追撃兵の鬨の声が入り混じる、混沌の坩堝と化した。
司令部の天幕の中で、ポンペイウスは、その外から聞こえてくる、自軍の兵士たちの悲鳴と、カエサル軍の勝利の歓声を、ただ、虚ろな耳で聞いていた。
彼は、椅子に座ったまま、身じろぎ一つしなかった。まるで、魂が抜け落ちた、石像のように。
内乱の雌雄は、今、この瞬間に、決した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




