第十八章:最後の計算、そして信頼
デュッラキウムでの敗北から、約一ヶ月が経過した。
その間、カエサル軍はテッサリアの平原を駆け巡り、まるで傷ついた狼のように、決して一つの場所に留まることはなかった。
彼らの目的はただ一つ、ポンペイウス軍を、彼らが望む決戦の舞台、つまり平原へと引きずり出すことだった。
カエサルは、巧みな用兵でポンペイウス軍を翻弄した。
敵の補給部隊の通り道に姿を現しては、彼らが陣を組む前に姿を消し、ゴーンフィのようなポンペイウス派の都市を、見せしめのように一日で陥落させてみせた。
それは、決して持久戦には持ち込ませないという、カエサルの強い意志の表れだった。
カエサル軍が執拗にちょっかいを出し続けることで、ポンペイウスはじわじわと、しかし確実に、決戦の場へと誘い込まれていった。
そして、ついにその時が来た。
元老院議員たちの「なぜ決戦をしないのか」という突き上げに耐えかねたポンペイウスが、ファルサルスの平原に、その全軍を展開させたのだ。
その報せが届いた瞬間、カエサル軍の司令部は、決戦前夜の最後の熱気に包まれた。
決戦前夜、カエサルの天幕に、主要な将軍たちが集められた。
アントニウス、ドミティウス・カルウィヌス、ファビウス、そしてレビルス。
彼らの顔には、長かった神経戦の疲労と、ついに訪れた決戦への覚悟が刻まれていた。
「……諸君、ポンペイウスが、ついに我々の誘いに乗った」
カエサルは、静かに切り出した。
「明朝、我々は、ローマの運命を決する戦いに臨む。レビルス、最後の計算の結果を、皆に共有してくれ」
その言葉を受け、レビルスは広げられた地図の前へと進み出た。
「敵の布陣は、我々の予測通りです。兵力はこちらの二倍以上。特に、ラビエヌスが率いる突撃魔術師団は、全軍を左翼に集中させています。彼の狙いは、我が軍の右翼を一点突破し、側面から全軍を崩壊させること。デュッラキウムの勝利の再現です」
レビルスの淡々とした分析に、アントニウスがギリ、と歯を鳴らした。
あの敗北の屈辱が、彼の脳裏をよぎる。
「だが」
とレビルスは続けた。
「我々には、策があります。まず、基本的な布陣です。左翼は、アントニウス。君が率いる第八、第九軍団で、敵の右翼主力を食い止めてもらう」
「任せろ」
とアントニウスは短く応えた。
その目には、闘志の炎が燃え盛っている。
「中央は、ドミティウス・カルウィヌス。君の任務は、耐えることだ。敵の中央軍は我々より多いが、決して突出はしてこない。戦線を維持しろ」
「承知した」
ドミティウスは、冷静に頷いた。
「そして、最も重要な右翼。ラビエヌスと対峙するここには、最強の第十軍団を配置し、カエサル閣下ご自身に指揮を執っていただく。だが、これだけでは、デュッラキウムの二の舞になる」
レビルスは、地図の第十軍団の後方に、数個の駒を置いた。
「各軍団から選び抜いた、六個大隊による第四列。これが、我々の罠です。ラビエヌスは、勝利を確信して必ず深追いしてくる。その無防備な側面を、この第四列の槍衾で、一撃の下に粉砕する」
そのあまりにも大胆な計略に、将軍たちは息を呑んだ。敵の最強の武器を、逆用する罠。
「……見事な策だ」
カエサルは、満足げに頷いた。
「だが、この策が成功するかどうかは、全てタイミングにかかっている。第四列を動かす、その一瞬の判断だ」
カエサルは、レビルスに向き直った。
「レビルス。お前の計算では、その『時』は、いつ訪れる?」
その問いに、天幕にいた誰もが固唾を呑んだ。
だが、レビルスは、静かに首を横に振った。
「……それは、私の計算の及ぶところではありません」
彼は、自らの限界を、初めてはっきりと認めた。
「その最後の引き金を引くのは、戦場の流れをその肌で読み、天の声を聴くことのできる者だけです。それは、閣下、あなたしかいない」
それは、計算の天才が、最後の勝利を、一人の天才の直感に完全に委ねた瞬間だった。
カエサルは、その言葉に、静かに頷いた。
二人の間には、絶対的な信頼だけが存在していた。
「……分かった」
カエサルは立ち上がると、居並ぶ将軍たちを見渡し、最後の命令を下した。
「アントニウス、左翼はお前に任せる。死んでも、そこを抜かせるな」
「ドミティウス、中央は持久戦だ。耐えろ」
「そして、第四列を率いる者たちよ。お前たちの働きが、この戦いの勝敗を決する。ラビエヌスが動くまで、決して動くな。だが、機が来たと見れば、一瞬の躊躇もなく、敵の心臓を突き破れ」
将軍たちは、「はっ!」という力強い声と共に、それぞれの持ち場へと散っていく。
その顔には、勝利への確信と、決戦を前にした興奮がみなぎっていた。
決戦の朝が、来た。
ファルサルスの平原に、二つの巨大な軍勢が対峙する。
レビルスは、カエサルの傍らに立ち、静かに敵陣を見据えていた。
彼の最後の計算が、今、試されようとしていた。
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