第十七章:勝者の慢心
デュッラキウムでの大勝利の後、ポンペイウスの陣営は、まるで祭りの前夜のような熱狂と、気の早い祝宴に包まれていた。
カエサルを打ち破ったという事実は、彼らを支配していた長期間の緊張から解放し、代わりに危険なほどの慢心を植え付けたのだ。
元老院議員たちは、豪華な天幕で夜ごと宴会を開き、まだ終わってもいない戦争の、戦後処理について議論を交わしていた。
カエサル派から没収する財産の分配、空席となるであろう要職への立候補、そして、凱旋式で誰がポンペイウスの隣を歩くか。
彼らの頭の中では、すでにカエサルの首は刎ねられ、共和政の栄光は取り戻されていた。
その熱に浮かされたような空気の中で、ただ一人、ティトゥス・ラビエヌスだけが、氷のように冷めたままでいた。
「追撃すべきです!今すぐに!」
その日の軍議でも、ラビエヌスはただ一人、即時追撃を主張していた。
彼の声は、祝勝ムードに沸く天幕の中で、不快なほどに硬質だった。
「カエサル軍は、今まさに傷つき、士気を失っている。狼は、傷を負っている時にこそ、息の根を止めねばなりません。彼らに時間を与えれば、必ずや回復し、我々に牙を剥きにくるでしょう。あの男は、そういう男です!」
だが、彼の必死の訴えは、元老院議員たちの嘲笑と、他の将軍たちの楽観論の前に、かき消された。
「何をそんなに焦るのだ、ラビエヌス君」
カエサルの政敵の一人であるドミティウスが、ワイングラスを片手に、鷹揚に言った。
「カエサルはもはやただの敗残兵だ。わざわざ我々の方から、テッサリアの田舎まで追いかけてやる必要などあるまい。放っておけば、飢えと兵士の離反で、自滅するだろうよ」
「その通りだ。我々は、ローマの正規軍だ。逃げ回る盗賊の集団を、これ以上相手にするのは、我々の威信に関わる」
元老院議員たちは戦後の利益分配に夢中で、ラビエヌスの言葉に聞く耳を持たなかった。
ポンペイウスでさえ、周囲の楽観論と、自らの慎重すぎる性格から、決断を下せずにいた。
ラビエヌスは、その光景を冷ややかに見つめていた。
デュッラキウムでの勝利は、彼がもたらしたものだ。
だが、この司令部では、彼はいつまで経っても、カエサルからの裏切り者でしかなかった。
彼の言葉の重みは、元老院議員たちの家柄と富の前では、あまりにも軽かった。
(……愚か者どもが)
ラビエヌスは、内心で吐き捨てた。
彼らは、カエサルという男の本質を、何一つ理解していない。
あの男が、この程度の敗北で折れるはずがないことを。
そして、この勝利が、いかに薄氷の上になりたつ奇跡であったかを。
ラビエヌスは、この司令部ではカエサルに勝てないと悟りつつあった。
軍議が終わると、ラビエヌスは宴の喧騒から逃れるように、天幕の外へ出た。
その時、彼の目に、この勝利の熱狂を不快に思っているのが、自分だけではないことに気がついた。
祝宴の輪から遠く離れた場所で、一人静かに佇む男の姿が映ったのだ。
小カトー。共和政の理念を、その身一つで体現する、清廉潔白だが頑迷な男。
カトーは、勝利に沸く兵士たちや、酒に酔い痴れる議員たちを、まるで汚物でも見るかのような、軽蔑に満ちた目で見つめていた。
その姿に、ラビエヌスは、言葉を交わすまでもなく、この男もまた、自分と同じものを見ているのだと理解した。
この陣営が、内側から腐り始めていることを。
そして、本当の敵は、カエサルではなく、自らの内に巣食う強欲と慢心であることを。
二人の視線が、一瞬だけ、遠くで交わった。そこには、何の言葉もなかった。
だが、共和政の理念のために戦うカトーと、個人の恩義のために戦うラビエヌス、決して相容れることのないはずの二人の間に、この腐敗した勝利の空気の中では、不思議な共感のようなものが、確かに存在していた。
ラビエヌスは一人、陣地の外れにある物見櫓へと登った。
カエサル軍が敗走していった、東のテッサリア地方の空を、彼はただじっと見つめていた。
(だが、俺は知っているぞ、カエサル)
彼の心の中で、かつての主君に語りかける。
(お前は、決してこのままでは終わらん。この屈辱を、お前の誇りが許すはずがない。必ず、この借りを返しに来る)
祝宴の騒がしい声が、風に乗って櫓まで届いてくる。
ラビエヌスは、その馬鹿騒ぎに背を向けると、静かに自分の天幕へと戻っていった。
そして、黙々と、自らの武具の手入れを始めた。
司令部がどうであろうと、自分がやるべきことは、ただ一つ。次に来るであろう、カエサルとの最後の決戦に備えること。
そして、今度こそ、あの男の息の根を、この手で止めること。
勝利の熱狂の中で、ただ一人、ラビエヌスだけが、次なる戦場の幻影を、その目に確かに見ていた。
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