第十六章:事実という名の礎
デュッラキウムからの敗走後、カエサル軍の陣営は、死そのものよりも重い沈黙に支配されていた。
兵士たちは、もはや言葉を交わすこともなく、ただ虚ろな目で日々の糧食を受け取り、武具の手入れさえも放棄していた。
デュッラキウムで砕け散ったのは、長大な包囲線だけではなかった。
ガリアでの八年間の戦役で築き上げられた、彼らの絶対的な自信と誇り、その全てが粉々に打ち砕かれていたのだ。
カエサル軍の士気は地に落ちている。
その絶望は、司令部の天幕においても同様だった。
「……全て、俺の責任だ。俺が、ラビエヌスの奇襲を許した……」
アントニウスは、頭を抱え、自らを責める言葉を繰り返していた。
冷静沈着なファビウスでさえ、悔しさに唇を噛みしめ、押し黙っている。
レビルスは意気消沈する副官たちの姿を、静かに見つめていた。
彼らは皆、ローマ最強の軍団が喫した、初めての大敗北という事実を、受け止めきれずにいた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、レビルスだった。彼は、一枚のパピルスを、長机の上に広げた。
「まず、事実を共有しましょう」
そのあまりにも場違いな、冷静な声に、将軍たちの視線が集まる。
レビルスは、淡々と、しかし明瞭な声で、損失を冷静に分析し始めた。
「此度の敗戦で、我々が失った兵士の数は、九百六十名。百人隊長は三十二名。軍旗は三十本以上。これらは、否定しようのない、我々の損害です」
その数字の一つ一つが、将軍たちの心に、敗北の痛みを改めて刻みつける。
アントニウスは、侮辱されたかのように顔を上げた。
「レビルス!貴様、この期に及んで、俺たちを数字で責めるつもりか!」
「責めているのではありません」
レビルスは、静かに首を横に振った。
「事実を見据えなければ、次の一手は打てないからです。兵の数だけで言えば、この損失は各軍団内で補充可能な範囲です。問題は、そこではない」
彼は、パピルスから顔を上げ、将軍たち一人一人の顔を見渡した。
「本当の損失は、数字には表れません。我々が失ったのは、百戦錬磨の兵士たちが持っていた『経験』と、今、生き残った兵士たちが失いかけている『誇り』です。この二つをどう取り戻すか。それが、我々の本当の課題です」
その言葉に、将軍たちは息を呑んだ。
レビルスは、感傷に浸ることを許さなかった。
彼は、敗北という混沌とした現実の中から、最も重要な問題点だけを、冷徹な分析によって抉り出してみせたのだ。
その時、天幕の入り口で腕を組み、黙ってそのやり取りを聞いていたカエサルが、静かに口を開いた。
「……それでこそ、私の副官だ」
カエサルは、ゆっくりとレビルスの隣に進み出ると、彼の肩に手を置いた。
「レビルスが、我々が立つべき礎を示してくれた。ならば、その上に、兵士たちの魂を再び吹き込むのが、私の仕事だ」
レビルスの計画によって勝利への礎を得たカエサルは、決意に満ちた目で、将軍たちを見渡した。
翌朝、カエサル軍の全軍が、広い野に集められた。
誰もがうつむき、その隊列には、かつての覇気など微塵も感じられなかった。
その兵士たちの前に、カエサルが一人、進み出た。
彼は、兵士たちの罪を責めるでもなく、言い訳をするでもなく、ただ、静かに語り始めた。
「兵士諸君。デュッラキウムでの出来事を、私は忘れない。我々は、敗れた。それは、紛れもない事実だ。そして、その責任は、全て指揮官である私にある」
その率直な言葉に、兵士たちが、ざわめいた。
「だが!」
とカエサルは、声を張り上げた。
「私は、お前たちを責めはしない!一度の不運な敗北で、自信を失うな!思い出せ!お前たちは何者だ!ガリア全土を平定し、無敵と言われたゲルマンの民を打ち破り、ブリタンニアにまで我らの鷲旗を突き立てた、あのカエサル軍団ではないか!」
カエサルの声が、雷鳴のように響き渡る。
「ヒスパニアでは、敵の七個軍団を、戦わずして降伏させた!イタリアは、我々の名を聞いただけで、戦火を交えずにその門を開いた!そのお前たちが、たった一度の敗北で、全てを忘れてしまったというのか!お前たちが長年かけて築き上げてきたその誇りを、自ら捨て去るというのか!私は、断じてそれを許さん!」
「この敗北は、我々の勇気が足りなかったからではない。天候と、地形の不利が、我々から勝利を奪っただけだ。ならば、次はどうする?答えは一つだ!有利な地形で、我々の本当の力を、ポンペイウスの軍に見せつければいい!この屈辱を晴らす機会は、必ずやってくる!失われた誇りは、次の勝利によって、自らの手で奪い返す以外にない!」
その演説が終わった時、兵士たちの間から、嗚咽が漏れた。
それは、やがて一人の雄叫びとなり、そして、数万の兵士たちの、大地を揺るがす鬨の声へと変わっていった。
カエサルは、兵士たちの士気を奇跡的に回復させたのだ。
レビルスは、その光景を後方から見つめていた。
自らが提示した「事実」という冷たい礎の上に、カエサルが「誇り」と「希望」という名の柱を打ち立てていく。
その見事な連携が、死に体だった軍団を、再び蘇らせていく。
軍団は、まだ死んではいない。
本当の戦いは、ここから始まるのだ。レビルスは、静かに、しかし力強く、その拳を握りしめた。
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