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内乱記異聞  作者: 奪胎院
序章:内乱前夜

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第五章:ローマの経済戦争

ガリアの冬営地で、カエサルが次なる戦いの密命を下していた頃、共和国の心臓、ローマでは、既に音も無く血も流れぬ「静かなる戦争」の火蓋が切って落とされていた。


その戦場は、フォルム・ロマヌムの議場でもなければ、カピトリヌスの丘の神殿でもない。ローマの富と情報が渦巻く、一室の書斎であった。


窓の外では、共和国の日常が慌ただしく過ぎていく。荷車を引く音、商人たちの呼び声、子供たちのはしゃぐ声。


だが、分厚い壁に囲まれたこの部屋の中だけは、まるで時が止まったかのように静かで、濃密な思考の空気が満ちていた。


「――カトの息のかかった元老院議員どもが、またカエサル閣下への非難決議を画策しているそうだ。内容は、ガリアでの『不当な略奪』とやらを糾弾するものらしい」


ガイウス・オッピウスは、密偵からの報告書を読み上げると、それを呆れたように机に放り投げた。


彼は公職には就かず、カエサルの個人代理人として、その巨大な情報網を管理する男だ。


書斎の壁一面には、ローマの地図ではなく、主要な貴族の家系図と、その姻戚関係や金の流れを示す線が無数に書き込まれている。


「不当な略奪、か。連中がポンペイウス閣下の東方遠征で得た富で私腹を肥やしたことは棚に上げて、よく言うものだ」


応じたのは、ルキウス・コルネリウス・バルブス。オッピウスの長年の盟友であり、カエサルの莫大な個人資産を管理する金庫番だ。その指は、常にローマ経済の脈拍を正確に感じ取っている。


「問題は、その非難決議に同調する者の数だ、バルブス。我々の買収工作にもかかわらず、いまだ元老院の半数近くが、カトの清貧という名の権威に靡いている。あの男の力は金ではない。自らがローマの伝統の体現者であるという、強固な自負心だ。我々の金では、あの男の誇りを買うことはできん」


「そして、マルケッルスやドミティウスのような他の貴族たちの力は、その血筋にある。彼らは、生まれながらにしてローマを支配する権利が自分たちにあると信じている。我々がいくら金を積もうと、彼らはそれを『成り上がりの恵み』として受け取るだけだ。彼らの忠誠は買えん」


「ならば、金そのものの価値を変えてしまえば良い」


バルブスは、こともなげに言った。彼の目には、冷徹な計算の光が宿っている。


「オッピウス、考えてみろ。連中の力の源泉は何か? それは、先祖代々受け継いできた土地と、市民に貸し付けた莫大な債権だ。彼らは、金のなる木を握っている。我々が彼らの土俵で相撲を取る必要はない。土俵そのものを、我々が作り変えれば良いのだ」


バルブスは一枚のパピルスを広げ、カエサルへ送る書簡の草稿を書き始めた。


「閣下は今、ガリア全土の富をその手に収められた。これをローマの旧い銀貨に両替しては意味がない。ガリアに**『移動造幣局』**を設置し、彼の地で産出される金銀を、直接ローマの新貨幣として鋳造する

のです。それも、市場が悲鳴を上げるほどの量を、だ」


オッピウスは、その悪魔的な計画の全貌を即座に理解した。


市場に新たな貨幣が溢れれば、必然的に激しいインフレが起きる。金の価値は下がり、物の価値は上がる。そうなれば、債権者である保守派貴族の資産価値は暴落し、逆に借金を抱える多くの市民の負担は、実質的に軽くなる。


「…敵の経済基盤を内側から破壊し、同時に民衆の支持を勝ち取る。一石二鳥、いや、それ以上の策だ。だが、バルブス。これを実行するには、ただの忠実な兵士では務まらん。ガリア全土の富の流れを掌握し、それを滞りなく貨幣に変え、ローマへ流し込む。そんな巨大な機構を、前線の混乱の中で動かせる人間が…」


「おりますな」


バルブスは、オッピウスの言葉を引き取った。


「閣下からの報告書を? あの『計算屋』の副官が。ウクソドゥヌムを、剣ではなく算盤で落とした男」


オッピウスの脳裏に、カエサルからの手紙の一節が蘇った。『彼、レビルスは、戦争を数字の集合体として捉えている。その思考は、我々とは全く異質だが、それ故に恐るべき武器となる』。


「…レビルス副官か。確かに、彼をおいて他におりますまい」


オッピウスは、バルブスの書いた草稿に静かに頷き、密偵だけが解読できる暗号で本文を清書し始めた。それは、ローマの未来を左右する、恐るべき指令書だった。


それを書き終えると、二人は信頼する伝令にそれを託した。伝令が部屋を出ていくと、書斎には再び静寂が戻った。


「…矢は放たれたな」


オッピウスが、静かに言った。


「ああ」


バルブスは、帳簿を整理しながら応じた。


「そしてこの矢は、旧き共和国の心臓を射抜くことになるだろう。カエサル閣下がお作りになる新しいローマが、その代償に見合うものであることを願うばかりだ」


二人は、窓の外に広がるローマの夜景を見つめた。市民たちはまだ、自分たちの足元で、共和国の経済という名の土台が、静かに、しかし確実に覆されようとしていることなど、知る由もなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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