第十五章:ローマの激震・市民
元老院が、権力者たちの醜悪な欲望と恐怖に揺れていた同じ頃、ローマの街路では、より直接的で、そして切実な絶望が渦を巻いていた。
ガイウス・オクタウィアヌスとマルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、フォルム(公共広場)の人混みの中を、まるで幽霊のように、誰にも気づかれることなく歩いていた。
「ひどい有様だ……」
アグリッパは、目の前で繰り広げられる光景に、思わず眉をひそめた。
カエサル敗北の報は、市民たちの間に、元老院とは質の違う、より根源的なパニックを引き起こしていた。
市場では、商品の値段を巡って客と店主が掴み合いの喧嘩を始め、あちこちで「ポンペイウス様万歳」と叫ぶ者と、「カエサル様を見限るのはまだ早い」と反論する者が、怒鳴り合っている。
二人はローマ市内の市民たちの絶望と混乱を目の当たりにしていたのだ。
噂が、噂を呼んでいた。「ポンペイウス様は、カエサル派を皆殺しにするそうだ」「いや、カエサル様はエジプトから援軍を呼んで、ローマを焼き払うらしい」。
根も葉もない、悪意に満ちた憶測が、人々の恐怖をさらに煽っていた。
アグリッパは、親友の横顔を盗み見た。
オクタウィアヌスは、その喧騒の中心にありながら、まるで嵐の目の中にいるかのように、静かだった。
彼は、個々の市民の怒りや恐怖ではなく、その集合体が発する、巨大な感情のうねりのようなものを、冷静に観察しているように見えた。
「彼らは、本当にポンペイウス様の勝利を喜んでいるのだろうか」
アグリッパが、低い声で問いかけた。
「一部の者はそうだろう。だが、大多数は違うように見える。まるで、何かに怯えているようだ」
「その通りだ、アグリッパ」
オクタウィアヌスは、足を止めると、一点をじっと見つめた。
その視線の先では、二人の男が口論をしていた。
一人は、カエサル様の新貨幣で借金が軽くなったことを感謝し、もう一人は、ポンペイウス様こそがローマの伝統を守るのだと主張している。
だが、彼らの口論が熱を帯びるにつれて、その内容は次第に変わっていった。
「カエサル様が勝っても、ポンペイウス様が勝っても、どうせまた殺し合いが始まるだけだ!」
「マリウスとスッラの時代のように、またローマが血の海になるのか……」
その言葉を聞いた瞬間、オクタウィアヌスは、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「……分かったぞ、アグリッパ。彼らが本当に恐れているものが、何なのか」
「何だというんだ?」
「カエサル様の敗北ではない。ポンペイウス様の勝利でもない。彼らが心の底から恐怖しているのは、この内乱に、もはや終わりが見えなくなったという、その事実そのものだ」
オクタウィアヌスは、市民の本当の恐怖が、「終わりの見えない内乱の再開」そのものであることを見抜いていた。
「考えてもみろ。カエサル様は、圧倒的な力でイタリアを平定し、ヒスパニアを制圧した。
市民たちは、彼ならば、この忌まわしい内乱を、すぐに終わらせてくれると信じたのだ。
だが、そのカエサル様が、ギリシャで大敗を喫した。
それは、市民たちにとって、絶対的な『終わり』の象徴が消え去ったことを意味する」
アグリッパは、息を呑んだ。親友の言葉が、今、目の前で起きている混乱の本質を、正確に射抜いていたからだ。
「つまり、彼らは……」
「ああ」とオクタウィアヌスは頷いた。
「カエサル様が勝とうが、ポンペイウス様が勝とうが、もはやどうでもいいのだ。彼らが望んでいたのは、ただ『平和』と『秩序』だけだった。だが、カエサル様の敗北によって、そのどちらもが、果てしなく遠いものに思えてしまった。だから、彼らは絶望している。どちらが勝っても、結局は報復合戦が始まり、また血が流れる。商店は閉じられ、穀物の値段は上がり、自分たちの息子が、また戦場へ送られる。その『終わらない日常の崩壊』こそが、彼らの恐怖の正体なのだ」
その分析は、あまりにも冷徹で、そして、あまりにも真実だった。
元老院の議員たちが、次の勝者は誰かという権力闘争に明け暮れている一方で、市民たちは、ただ、明日のパンと、家族の無事を案じているに過ぎない。
二人は、再び無言で歩き出した。
だが、アグリッパの目に映るローマの光景は、先程までとは全く違って見えていた。
怒鳴り合う男たちの声は、憎しみではなく、未来への恐怖の叫びに聞こえた。
店を閉めようとする商人の背中は、諦めに満ちていた。
この国は、病んでいる。
共和政という、ローマが百年以上も信じてきたシステムそのものが、もはや機能不全に陥っている。
カエサル様も、ポンペイウス様も、その病が生み出した、巨大な症状に過ぎないのかもしれない。
「……アグリッパ」
不意に、オクタウィアヌスが足を止めた。
「市民たちが、心の底から望んでいるものは、やはり『平和』なのだろう」
「ああ、そうだろうな」
「だが」とオクタウィアヌスは続けた。
その瞳には、年齢にそぐわぬ深い思索の色が浮かんでいた。
「その誰もが望む平和を、一体どうすれば実現できるのだろうな。元老院の議論か?それとも、どちらか一人の将軍の、完全な勝利か?……分からない。だが、今のローマを見ていると、市民たちが求めているのは、もはやそのどちらでもない、何か別の答えのような気がしてならないのだ」
その言葉は、問いかけでありながら、どこか未来の本質を探り当てるかのような、不思議な響きを持っていた。
若き獅子は、この日、ローマという国家が抱える病の根深さと、市民たちが心の底から渇望しているものの正体を、おぼろげながら、しかし確かに、その心に刻み付けていた。
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