第十三章:計算の敗北
敗走。
その一言が、これほどまでに現実の重みを持って、レビルスの全身にのしかかったことはなかった。
彼は、敗走する軍の中で、ただ機械のように足を動かしながら、目の前で起きている惨状を、信じられない思いで見つめていた。
数日前まで、彼らが誇った長大な包囲線は、今や見る影もなく破壊され、あちこちで黒煙を上げていた。
道端には、負傷して動けない兵士たちのうめき声が響き渡り、打ち捨てられた武具や軍旗が、彼らの敗北を無言で物語っている。
兵士たちの顔からは、生気というものが完全に消え失せ、誰もが口を閉ざし、幽鬼のような足取りで、ただ当てもなく歩き続けていた。
兵士たちの士気は地に落ちていた。
(なぜだ……?なぜ、破られた……?)
レビルスの頭の中では、その問いだけが、壊れた機械のように何度も何度も繰り返されていた。
彼が設計した包囲網は、完璧なはずだった。
地形、兵力配置、補給路、その全てを計算し尽くし、あらゆる攻撃を想定して築き上げた、難攻不落の城壁。
それが、なぜ。
「……ラビエヌスだ」
隣を歩いていたファビウスが、土気色の顔でぽつりと呟いた。
「突破口となった南翼の配置を知り尽くし、最も効果的な一点を突いてきた。我々の戦術を、我々以上に理解している男の仕業だ……」
その言葉が、レビルスの胸を抉った。
ラビエヌス。かつての戦友。
あの男が、彼の計算を打ち破ったのだ。レビルスは衝撃を受けていた。
戦争とは、数字や理論だけで成り立つものではない。
そこには、長年培われた経験と、相手の思考を読む洞察力という、計算不能な変数が存在する。
自らが設計した完璧なはずの包囲網が、かつての戦友ラビエヌスによって破られたこと。
その事実は、彼の計算という名の傲慢さを、完膚なきまでに打ち砕いた。
だが、彼を打ちのめした本当の衝撃は、その直後にやってきた。
後方から、命からがら逃れてきた百人隊長が、カエサルの元へと駆け込んできたのだ。その顔は、恐怖と怒りで歪んでいた。
「申し上げます!ラビエヌスは……ラビエヌスは、降伏した我々の仲間を、全員……!」
その報告は、言葉にならなかった。
だが、その意味を悟った瞬間、レビルスは全身の血が凍りつくのを感じた。
降伏した仲間たちが、容赦なく処刑された。あのラビエヌスの命令で。
それは、もはや戦術や戦略ではない。
憎悪と狂気が支配する、ただの殺戮。
この内乱が、戻ることのできない一線を越えてしまったことを、その事実は何よりも雄弁に物語っていた。
レビルスは、思わずその場に嘔吐しそうになるのを、必死で堪えた。
彼の計算の世界には、このような非合理な悪意が存在する余地はなかった。
彼の敗北は、単なる作戦の失敗ではなかった。
人間という、最も計算不能な存在に対する、彼の理解そのものの敗北だったのだ。
夜になり、軍は追撃を逃れて、ようやく粗末な野営地で休息をとった。
焚火を囲む兵士たちの間には、重い沈黙だけが支配していた。
誰もが、デュッラキウムでの悪夢を、そして、仲間が無慈悲に殺されたという事実を、まだ受け止めきれずにいた。
レビルスは、自分の天幕で、広げっぱなしになっていた包囲線の設計図を、ただ呆然と見つめていた。無数の線と数字が、今はただ、自らの敗北を証明するだけの、無意味な記号にしか見えなかった。
その時、天幕の入り口が静かに開けられ、カエサルが入ってきた。
彼の顔にも、さすがに疲労の色は濃かった。だが、その瞳の光だけは、まだ失われてはいなかった。
「……眠れんか、レビルス」
「閣下……」
「お前のせいではない。全ての責任は、決断を下した私にある」
カエサルは、そう言うと、レビルスの向かいに腰を下ろした。
「申し訳、ありません。私の計算が……甘かったのです」
レビルスは、絞り出すように言った。
「ラビエヌスの能力と、我々の計画の弱点を見通す力を、私は完全に侮っていました。彼が、我々の思考の裏をかいてくる可能性を、計算に入れるべきでした」
「誰も、人の心の中までは計算できんよ」
カエサルは、静かに言った。
「だが、我々は敗れた。それは事実だ。兵士たちは自信を失い、敵は勢いづいている。間違いなく、カエサル軍は最大の危機を迎えている」
カエサルの言葉は、どこまでも冷静だった。
彼は、敗北という事実から目を逸らさず、ただ、次の一手を見据えていた。
彼の心に刻みつけられた敗北の傷は、あまりにも深い。
だが、レビルスは崩れ落ちそうになる思考を必死で繋ぎ止め、自らの役割を思い出した。
まず、今の状況を正確に把握することから始めなければならない。
失った兵士の数、残された食料、敵の次の動きの予測。計算すべき現実は、目の前に山積している。
彼は、瓦礫の中から、一つずつ数字を拾い集めるように、意識を切り替え始めていた。
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