第十二章:裏切り者のDignitas(尊厳)
ポンペイウス軍の陣営は、奇妙な安堵と、退屈に満ちていた。
カエサルが築き始めた長大な包囲線は、確かに不気味ではあったが、彼らの生命線を脅かすには至っていない。
海からの補給は潤沢であり、兵士たちは飢えることもなく、元老院議員たちは日夜、戦後のローマにおける自らの地位について、気の早い議論を交わしている。
だが、その中でただ一人、ティトゥス・ラビエヌスだけが、その目をカエサルの築く土塁の一点に、蛇のように据えていた。
彼は、この陣営の誰よりも、カエサルという男を、そして彼が生み出す戦術の本質を理解していた。
(あの男は、決して無駄な手は打たない。この包囲線は、我々の兵站を断つためではない。我々の誇り(ディグニタス)と、我々の切り札である突撃魔術師団を無力化するための、心理的かつ兵站的な罠だ。
彼らの大規模魔術には、この土地から採れる特殊な鉱石触媒が不可欠。この包囲線は、我々からその供給路を断つためのものだ)
ラビエヌスは、来る日も来る日も自軍の陣地を巡り、カエサルの包囲線を、かつての主君の思考をなぞるように観察し続けた。
十年以上、あの男の隣で戦ってきたのだ。土塁の角度、櫓の間隔、塹壕の深さ。
その全てが、何を意図して作られているのか、彼には手に取るように分かった。そして、分かってしまうからこそ、彼はカエサル軍の弱点を見抜いてしまった。
(南翼、第六砦と第七砦の間……あそこだけ、地形の問題で工事が遅れている。そして、あの区画を守っているのは、新兵が多い第九軍団のはずだ)
それは、彼がカエサルの副官であった頃に、自ら鍛え上げた部隊の配置に関する知識と、最新の情報を組み合わせた分析の賜物だった。
あまりにも長大すぎるがゆえの、必然的な綻び。
その夜、ラビエヌスはポンペイウスが主宰する軍議の席で、自らの作戦を提示した。
「好機です、ポンペイウス様。今こそ、カエサルの傲慢な鼻をへし折る時です」
彼は、地図の上に、一本の鋭い矢印を描き込んだ。第六砦と第七砦の、まさにその間隙を貫く、一点集中の突破作戦。
「我が軍の全兵力をもって、この一点を夜明けと共に強襲します。不意を突かれた包囲線は分断され、カエサル軍は混乱に陥るでしょう。そこで、全軍で打って出れば、我々は勝利できる」
その作戦のあまりの単純さと、しかし、その裏に隠された緻密な分析に、居並ぶ将軍たちは息を呑んだ。ポンペイウスは、静かにラビエヌスの目を見つめ、そして、深く頷いた。
「……分かった、ラビエヌス。その作戦の指揮、お前に全てを任せる」
夜明け。ラビエヌスは、自ら選び抜いた精鋭部隊の先頭に立っていた。
彼の顔には、かつての戦友と刃を交えることへの感傷など、一片も浮かんでいなかった。
あるのは、この戦いに勝利し、自らが選んだ道が正しかったと証明するための、冷徹な決意だけだった。
「行けえええっ!」
ラビエヌスの号令一下、ポンペイウス軍は、奔流となってカエサルの包囲線へと殺到した。
狙いは、ただ一点。ラビエヌスが見抜いた、あの脆弱な区画。
奇襲を受けた第九軍団は瞬く間に蹂躙され、包囲線はいとも容易く突破された。
その瞬間、カエサル軍の司令部は大混乱に陥った。
「レビルス!南翼が崩れたぞ!」
アントニウスの怒声が飛ぶ。
レビルスは、司令部の天幕で地図を睨みつけながら、信じられない思いでその報告を聞いていた。
完璧なはずの包囲網が、破られた。彼の計算が、かつての戦友、ラビエヌスに上回られたのだ。
「予備兵力を南へ!アントニウス、ファビウス、持ちこたえさせろ!」
カエサルはすぐさま指示を飛ばすが、戦況は彼の想像を絶していた。
突破口から雪崩れ込んできた敵兵は、カエサル軍の兵士たちを、彼らが自ら築いた複雑な塹壕や土塁の中へと追い込んでいく。
味方を助けるための防衛設備が、今や味方の退路を塞ぐ、死の迷路と化していたのだ。
パニックに陥った兵士たちは、我先にと逃げ惑い、狭い通路で折り重なって圧死していく。
アントニウスは、最前線で剣を振るい、「退くな!ここで踏みとどまれ!」と兵士たちを鼓舞するが、一度崩れ始めた奔流は止められない。
ファビウスは、冷静に部隊を再編しようと試みるが、混乱の中で彼の指示は届かなかった。
海岸線を守っていたデキムスは、陸の惨状を目の当たりにしながら、船を出すべきか、それとも最後の防衛線を築くべきか、苦渋の決断を迫られていた。
ついにカエサル軍は、完全な敗走に転じた。内乱が始まって以来の、初めての明確な大敗北。
その日の戦闘で、カエサルは千人近いベテラン兵と、三十二人もの百人隊長を失った。
勝利の後、ラビエヌスの前に、数十人の捕虜が引き立てられてきた。彼らは、かつてラビエヌスが直接指揮したこともある、歴戦の兵士たちだった。
ラビエヌスは、勝ち誇るポンペイウス軍の将兵が見守る中、ゆっくりと捕虜たちの前に進み出た。
そして、嘲るような口調で、彼らに語りかけた。
「ほう、これはこれは、勇猛なる戦友諸君。ずいぶんと見事な逃げっぷりだったではないか。教えてもらおうか。お前たちのような、幾多の戦場を生き抜いてきたベテラン兵が、敵に背を向けて逃げ出すというのは、一体いつからの習わしになったのだ?」
その侮辱的な言葉に、捕虜たちは悔しさに顔を歪め、唇を噛むことしかできない。
ラビエヌスは、その光景を満足げに眺めると、ポンペイウスに向き直り、芝居がかった仕草で言った。
「ポンペイウス様。この者たちの処遇、この私にお任せいただけますかな?彼らがこれ以上、祖国に刃向かうことのないよう、私が責任をもって処断いたします」
そして彼は、再び捕虜たちへと向き直ると、氷のように冷たい声で、傍らに控える百人隊長に命じた。
「全員、処刑しろ。一人残らずだ」
その言葉に、捕虜たちの顔が絶望に染まる。
兵士たちは、ただ、その冷酷な命令に従うだけだった。
その日、デュッラキウムの野に、ローマ兵の断末魔の叫びが響き渡った。
それは、ラビエヌスという男が、自らの過去と、かつての戦友たちとの絆を、完全に断ち切った瞬間を印す、挽歌でもあった。
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