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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第三部 ギリシャ決戦

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第十一章:逆包囲

デュッラキウムでの神経戦は、カエサル軍の精神と肉体を、確実に蝕んでいた。


合流直後の高揚感は遠い過去のものとなり、兵士たちの間には日々の飢えと、終わりの見えない対陣への不満が渦巻いていた。


いつ決戦は始まるのか。我々はこのまま、ギリシャの土の上で飢え死にするのを待つだけなのか。


そんな声が、陣営の至るところで囁かれ始めていた。


「もはや限界です、閣下!」


軍議の席で、ついにアントニウスが声を荒げた。


「このままでは、戦う前に兵士たちが斃れてしまいます!たとえ無謀であろうと、ポンペイウスの陣地へ総攻撃をかけるべきです!」


その意見に、他の将軍たちの多くも頷いた。彼らは戦士だった。


計算ずくの持久戦よりも、たとえ勝ち目が薄くとも、剣を抜いて戦うことを望んでいた。


このままではジリ貧になる。その判断は、もはや誰の目にも明らかだった。


だが、カエサルは静かに首を横に振ると、長机に広げられた巨大な地図の上に、おもむろに一本の線を引いた。


その線は、デュッラキウムの丘陵に陣取る、広大なポンペイウスの陣地を、さらに大きく、外側からぐるりと取り囲む、巨大な円弧だった。


「……閣下、これは?」


ファビウスが、訝しげに尋ねる。


「我々は、ポンペイウスを包囲する」


カエサルのその一言に、天幕は水を打ったように静まり返った。


将軍たちは、自分たちの耳を疑った。


包囲。それは、圧倒的な兵力を持つ側が、劣勢の敵に対して行う戦術。


だが、今、兵力で劣っているのは、明らかに自分たちの方なのだ。


兵力で劣るにもかかわらず、ポンペイウスの大軍を、長大な包囲線で封じ込める。


それは、軍事学の常識を根底から覆す、狂気の沙汰としか思えなかった。


「正気ですか、閣下!」


アントニウスが、思わず叫んだ。


「我々の兵力で、あの広大な陣地を包囲するなど、不可能だ!あまりにも長大な包囲線を築けば、守りは薄くなり、敵にやすやすと突破されるだけです!」


「その通りだ」


カエサルは、アントニウスの反論をあっさりと認めた。


「だからこそ、やるのだ。常識外れの作戦だからこそ、ポンペイウスもすぐにはその意図を理解できん」


カエサルは立ち上がると、地図を指し示しながら、その狂気の作戦の真意を語り始めた。


「第一に、ポンペイウス軍の最大の武器である騎兵を封じる。彼らは、我々の何倍もの騎兵を擁しているが、その馬を養うための飼料は、周辺の土地からの徴発に頼っている。この包囲線で、彼らを陣地に閉じ込めれば、馬は飢え、騎兵は無力化される」


「第二に、ポンペイ-ウスの威信ディグニタスを失墜させる。東方の王たちや元老院議員たちの前で、ローマ最高の将軍と謳われたポンペイウスが、兵力で劣る我々に包囲されている。その事実は、彼の求心力を大きく揺るがすだろう」


「そして第三に、我々自身の兵站を守る。この包囲線は、我々の陣地を守る長大な城壁ともなるのだ」


それは、軍事的な合理性と、心理的な効果を緻密に計算し尽くした、恐るべき作戦だった。


だが、将軍たちの疑念は晴れない。あまりにも壮大で、あまりにも現実離れしている。


全ての視線が、カエサルの傍らに控える一人の男へと注がれた。レビルス。


この軍団の「頭脳」。この狂気の作戦を、現実の計画へと落とし込める唯一の人間。


カエサルは、静かに彼へと向き直った。


「レビルス。君の計算では、どうだ。可能か?」


レビルスは、地図の上に引かれた一本の線を、食い入るように見つめていた。


全長、およそ二十四キロメートル。そこに、どれだけの土塁を築き、どれだけの櫓を建て、どれだけの兵士を配置し、そして、その工事にあたる兵士たちに、どれだけの食料を分配せねばならないのか。


彼の頭脳は、常人には眩暈がするほどの速度で、天文学的な数字を弾き出していた。


やがて、彼は顔を上げた。その目には、疲労の色はなかった。


不可能へと挑む、技術者としての静かな興奮が宿っていた。


「……可能です。ただし、全軍の兵士が、今日から剣ではなく、くわつちを手にすることになりますが」


その言葉が、全てを決定づけた。


翌日から、ギリシャの大地で、前代未聞の巨大工事が開始された。


カエサル軍の兵士たちは、百人隊長の号令の下、一糸乱れぬ動きで土を掘り、石を運び、柵を打ち込んでいく。


それは、もはや軍隊ではなく、一つの巨大な建設集団だった。


そして、その全てを、レビルスが支配していた。


彼は、この前代未聞の作戦を成功させるため、不眠不休で包囲線の設計と兵站の維持にあたった。


彼は、広大な工事現場を駆け巡り、地形に合わせて土塁の高さを修正し、泉の位置から兵士たちの宿営地を割り出し、限られた工具と資材を、最も効率的に分配するための計算を続けた。


夜になっても、彼の天幕の灯は、決して消えることはなかった。


食事も睡眠も忘れ、ただひたすらに、地図と数字と格闘し続ける。


その鬼気迫る姿は、兵士たちに畏敬の念を抱かせた。


数週間後、ポンペイウス軍が陣取る丘陵の眼下に、少しずつ、しかし確実に、長大な城壁がその姿を現し始めた。


丘の上からそれを見ていたポンペイウスの将兵たちは、最初、カエサルの意図を理解できずに嘲笑した。


だが、その壁が、日に日に自分たちを取り囲むように伸びていくのを見て、次第に不気味な沈黙へと変わっていった。


狂気の作案は、一人の天才的な計算屋の頭脳と、数万の兵士たちの汗と土によって、今、現実のものとなろうとしていた。


この逆包囲が完成した時、果たしてどちらが包囲する側で、どちらが包囲される側なのか。


その答えを、まだ誰も知らなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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