第十章:ギリシャの陣取り合戦
奇跡の合流から数日後、カエサル軍は一つの巨大な軍隊として、再びその威容を取り戻していた。
アントニウスがもたらした兵士と、なによりも切望していた食料と武具。
それらは、三ヶ月の地獄を耐え抜いた兵士たちの心に、新たな闘志の火を灯した。
絶望の淵から這い上がった軍団の士気は、天を衝くほどに高かった。
「決戦の時は来た」
軍議の席で、カエサルは力強く宣言した。
「我々はデュッラキウム(現在のドゥラス)へ向かう。そこに、ポンペイウスの本隊がいる。この戦いに、我々の全てを賭ける」
その言葉に、将軍たちは鬨の声を上げんばかりに沸き立った。
アントニウスは目を爛々と輝かせ、ファビウスは静かに頷き、他の将軍たちもまた、決戦への覚悟をその顔に浮かべている。
ついに、この内乱に終止符を打つ時が来たのだ。
全軍集結したカエサルは決戦を挑むべく、全軍を挙げてデュッラキウムへと進軍を開始した。
その動きは迅速で、威風堂々たるものだった。
だが、ポンペイウスは、カエサルが望んだようには動かなかった。
「ポンペイウス、陣地より動かず!丘陵地帯に築いた強固な陣地に籠城し、我々の出方を窺っています!」
斥候からもたらされた報告に、カエサルの天幕は沈黙に包まれた。
ポンペイウスは、野戦での決戦を巧みに避けたのだ。
彼は、カエサル軍の兵士たちが、長年の実戦で鍛え上げられた、世界最強の歩兵であることを知っていた。
平原での正面決戦となれば、たとえ兵力で勝っていても、自分たちに勝ち目はないと。
代わりに彼が選んだのは、持久戦だった。
デュッラキウムの強固な陣地に籠り、カエサル軍をその前面に釘付けにする。
自分たちは、制海権を握る艦隊によって、東方の属州から無尽蔵の食料と物資の補給を受けることができる。
一方、カエサル軍の補給路は、イタリアからアドリア海を渡る、か細く、そして危険な一本の線のみ。
時が経てば、必ずやカエサル軍は飢え、疲弊する。そこを叩けばいい。
それは、ポンペイウスの総司令官としての、そしてローマ最高の将軍の一人としての、あまりにも老獪で、的確な判断だった。
ここから、数ヶ月間にわたる、両軍の神経戦が始まった。
ギリシャ全土を舞台とした、壮大な陣取り合戦。
カエサルは、何度もポンペイウスを平地へと誘い出そうと試みた。
挑発的な機動を見せ、小競り合いを仕掛け、時には敵陣の目前まで軍を進めた。
だが、ポンペイウスは決してその挑発には乗らず、亀のように陣地に閉じこもり続けた。
そして、その間にも、カエサル軍の生命線は、確実にすり減っていった。
「……パンの配給量を、さらに一割削減する。兵士たちには、現地で調達した根菜を粥にして補うようにと伝えろ」
レビルスは、司令部の天幕で、不眠不休の計算を続けていた。
彼の戦場は、デュッラキウムの丘陵ではなかった。彼の敵は、ポンペイウスの軍団ではなく、「飢餓」という名の、より恐ろしい怪物だった。
彼の前には、ギリシャの地図と、山のような補給状況の報告書が広がっている。
レビルスは、常に食料不足に苦しむ自軍の兵站を維持するため、天才的な計算能力を駆使して奔走するしかなかった。
(この村からは、小麦をこれだけ徴発できた。だが、次の村は、すでにポンペイウス派によって刈り取られた後だった)
(イタリアからの輸送船は、次の満月の夜に、この入り江に到着する予定だ。だが、敵艦隊に見つからずに辿り着ける確率は、三割にも満たない)
一つ一つの数字が、彼らの置かれた状況の厳しさを物語っていた。
合流直後の歓喜と興奮は、日々の空腹と、終わりの見えない対陣によって、静かな焦りへと変わっていった。
兵士たちの顔から、再び生気が失われ始めていた。
「レビルス。兵士たちの不満が、限界に近い」
ある夜、百人隊長の一人が、彼の天幕を訪ねてきて、苦渋の表情で訴えた。
「ガリアの戦役でさえ、これほどの飢えは経験したことがありません。皆、『なぜ、戦わないのか』と……」
「分かっている」
レビルスは、乾いた声で答えた。
「だが、今、ポンペイウスの陣地に攻めかかれば、我々は全滅する。それは、計算するまでもない事実だ」
百人隊長は、それ以上何も言えず、悔しそうに唇を噛んで引き下がっていった。
レビルスは、その背中を見送りながら、自らの無力さを痛感していた。
彼は、兵士たちの腹を満たすことも、彼らが望む勝利を与えることもできない。
ただ、数字を睨みつけ、破滅までの時間を、一日、また一日と引き延ばすことしかできないのだ。
ギリシャの太陽が、容赦なく乾いた大地を照りつける。カエサルとポンペイウス。
ローマが生んだ二人の英雄は、互いに睨み合ったまま、動かない。
だが、その静寂の水面下では、カエサル軍の力が、砂の城が崩れるように、少しずつ、しかし確実に、削り取られていっていた。
レビルスは、地図の上で、デュッラキウムのポンペイウスの陣地を、コンパスでなぞった。
このままでは、ジリ貧だ。いずれ、我々は飢えに屈し、降伏か、あるいは玉砕かの選択を迫られるだろう。
(何か、手はないのか。この膠着した盤上を、根底から覆すような、一手が……)
彼の思考は、再び計算不能な領域へと踏み込もうとしていた。
常識の外にある、新たな盤の創造。それは、かつてイレルダの奇跡を生み出した思考法。
だが、目の前の敵は、アフラニウスやペトレイウスではない。ローマ最強の将軍の一人、グナエウス・ポンペイウス。
レビルスは、目を閉じ、思考の深海へと沈んでいく。
この神経戦を終わらせるための、狂気と紙一重の一手を、見つけ出すために。
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