第九章:奇跡の合流
アントニウスが賭けた南風は、彼らの船団を矢のようにアドリア海の上を滑らせた。
だが、その賭けは、同時に彼らを新たな窮地へと追い込んでいた。風は、あまりにも強すぎたのだ。
「ダメだ、アントニウス!この風では南へは寄せられない!船が北へ、どんどん流されていく!」
艦隊を指揮するデキムスが、荒れ狂う甲板の上で叫んだ 。
彼らが目指していたカエサルの拠点からは大きく外れ、船団は敵の完全な支配下にあるデュッラキウムの、さらに北の海域へと押し流されていく。
やがて、彼らの幸運の源であった南風が、その勢いを弱め始めた。
それは、船の操縦を取り戻す光明であると同時に、死の宣告でもあった。
風が凪げば、海上封鎖を続けるポンペイウスの偵察艦隊に見つかるのは時間の問題だったからだ。
そして、彼らは見つかった。
水平線の彼方に、俊敏なガレー船の船影がいくつも現れたのだ。
警報の角笛が鳴り響き、アントニウスの船団に緊張が走る。
敵艦隊に発見され、彼らは絶体絶命の窮地に陥った。
鈍重な輸送船団と、海戦に特化した戦闘艦。勝ち目など、どこにもなかった。
「ここまでか……!」
アントニウスが、追撃してくる敵艦隊を睨みつけ、歯噛みしたその瞬間だった。
奇跡が、起きた。
それまで吹いていた南風が、まるで神が気ままぐれを起こしたかのように、ぴたりと止んだのだ。
そして、次の瞬間、全く逆方向から、激しい南西の風が吹き荒れた。
突如風向きが変わるという天候の奇跡に助けられたのである。
アントニウスの輸送船団は、その新たな風を帆に受け、近くのニュンパエウムの港へと滑り込むように避難することができた。
だが、彼らを追撃してきたポンペイウスの艦隊は、悲劇的な末路を辿った。
櫂で進む彼らの船は、逆風をまともに受け、操船不能に陥ったのだ。
風と波に弄ばれたガレー船は、次々と海岸の岩礁へと叩きつけられ、砕け散っていった。敵の追撃艦隊が壊滅したのだ。
アントニウスは、港の入り口で繰り広げられる敵艦隊の壊滅を、信じられない思いで見つめていた。
自分たちの絶体絶命の危機が、天候の急変という、計算不能な力によって、敵の全滅という、望外の結果へと転じたのだ。
こうして、アントニウス率いる第二陣は、一隻の船も、一人の兵士も失うことなく、ギリシャの地へと上陸を果たした。
その報せは、数日後、南で絶望的な戦いを続けていたカエサルの陣営へと届いた。
「申し上げます!アントニウス様、及びデキムス様率いる第二陣、ニュンパエウムに上陸成功との報せ!」
伝令のその声に、天幕にいた将軍たちは、一瞬、自分の耳を疑った。
三ヶ月。何の音沙汰もなかったのだ。誰もが、第二陣はイタリアから出航することさえできずにいるのだと、諦めかけていた。
「……本当か」
レビルスの口から、かすれた声が漏れた。彼が送り続けた無数のメッセージ、その一本が、ついにこの奇跡の引き金となったのだ。
「よし!」
カエサルは、地図を叩くと、力強く立ち上がった。その顔には、数ヶ月ぶりに、覇気と喜びに満ちた光が戻っていた。
「全軍、ただちに進軍を開始する!北へ!アントニウスたちを迎えに行くぞ!」
分断されていた二つの軍は、ついに劇的な再会を遂げるべく動き出した。
北を目指して急進軍するカエサルの軍勢と、南下してくるアントニウスの軍勢。
その中間地点で、両軍の先遣隊が互いの軍旗を視界に捉えた時、大地が震えるほどの歓声が上がった。
三ヶ月ぶりに再会した兵士たちは、まるで兄弟のように抱き合った。
ギリシャで地獄を耐え抜いた兵士たちは、骨と皮ばかりに痩せこけていた。
だが、その瞳には、生きて再会できたことへの、純粋な喜びの涙が光っていた。
やがて、カエサルが馬を寄せると、アントニウスとデキムスが兵士たちの間を割って進み出てきた。
アントニウスは、馬から飛び降りるなり、カエサルの腕を力強く掴んだ。
「閣下!お待せいたしました!」
「よくぞ来た、アントニウス。よくぞ、渡ってきてくれた」
カエサルの声には、抑えきれない安堵と、部下への深い感謝が滲んでいた。
カエサルは次に、アントニウスの隣で静かに佇むデキムスへと視線を移した。その若き艦隊司令官の顔には、困難な任務をやり遂げた疲労と、誇りが浮かんでいた。
「デキムス。君の腕がなければ、この奇跡はなかっただろう。感謝する」
「……閣下のご武運の賜物です」
デキムスは、多くを語らず、しかし力強く応えた。
レビルスは、その光景を少し離れた場所から見つめていた。
アントニウスの決断と、デキムスの操船技術。
そして、名もなき船乗りたちの勇気。それら人間の意志に、天候という計算不能な奇跡が加わって、今、この瞬間があるのだと。
戦争とは、一人の天才の計算だけで動くものではない。
無数の人間の意志と、運命という計算不能な力が絡み合って、歴史を創り上げていく。
その当たり前の事実を、彼はこの三ヶ月の絶望の果てに、改めて全身で理解していた。
カエサル軍は、ついに全軍団の合流を成し遂げた。
孤立し、死を待つだけだった獣は、再び牙を取り戻し、一つの強力な軍隊として生まれ変わった。
兵士たちの顔からは、すでに絶望の色は消え去っている。
そこにあるのは、地獄から生還した者だけが持つ、揺ぎない自信と、次なる戦いへの静かな闘志だった。
奇跡は、終わった。
ここからは、再び計算と、そして剣とが支配する、戦争という名の現実が始まる。
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