第八章:ブルンディシウムの賭け
カエサルが嵐の海へと消えてから、一ヶ月が過ぎた。
ブルンディシウムの港には、第二陣の兵士たちの焦りと、アドリア海から吹き付ける冷たい風だけが満ちていた。
カエサルが率いた船団が帰還する気配は、全くなかった。
「……やはり、戻ってはこないか」
司令部の天幕で、艦隊司令官デキムス・ブルトゥスは、海図から顔を上げて静かに呟いた。
彼は、カエサル出発の数日後から、すでに最悪の事態を想定して手を打っていた。
南イタリアの全沿岸都市へ、カエサルの名において「全ての船をブルンディシウムへ」という徴発令を出していたのだ。
彼の司令官としての冷静な判断が、無為な時間を過ごすことを許さなかった。
港には、その命令に応じて集められた大小様々な船が、日ごとにその数を増やしていた。
だが、その光景は、マルクス・アントニウスの焦りを増幅させるだけだった。
「デキムス!船は集まっているではないか!なぜ出航しない!貴様は、カエサル様を見殺しにするつもりか!」
天幕に乗り込んできたアントニウスは、デキムスの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「アントニウス、落ち着け」
デキムスは、その激情を冷静な視線で受け止める。
「船があっても、海へ出ることはできん。敵将ビブルスは、病的なまでの執念で海上封鎖を続けている。この冬の嵐の中、一日も休むことなく自ら艦隊の指揮を執っていると聞く。今、この寄せ集めの船団で出航すれば、我々は彼の餌食になるだけだ」
「だが、何もしなければ、ギリシャの閣下は飢え死にするかもしれんのだぞ!」
「だからこそ、無駄死にはできんのだ。我々が、最後の希望なのだからな」
アントニウスとデキムス。二人の意見は、常に平行線だった。
カエサルへの忠誠心という点では同じ方向を向いていながら、その手段において、激情と冷静は決して交わらなかった。
そんな日々が、さらに二ヶ月続いた。
港は、デキムスが改装させた船で溢れ、兵士たちはアントニウスの訓練によって精強さを保っていたが、彼らの心は希望のない待機によってすり減っていた。
その日、膠着した状況を動かす、一つの情報がもたらされた。
デキムスが放っていた斥候の小舟が、一人のギリシャ商人を捕らえて帰還したのだ。
「……ビブルスが、死んだ?」
商人がもたらした情報に、天幕にいた将軍たちは息を呑んだ。
「はい。敵の司令官、マルクス・ビブルス様は、冬の海の厳しさの中、不眠不休で指揮を続けた結果、病に倒れ、数日前に陣中で亡くなられた、と。敵の艦隊は、後任の司令官も決まらず、今、指揮系統が混乱しているはずです」
その言葉を聞いた瞬間、アントニウスとデキムスは、初めて互いに同じものを見た。
それは、「好機」という名の、暗闇を貫く一条の光だった。
「……デキムス」
アントニウスが、静かに、しかし燃えるような瞳で言った。
「ああ、アントニウス」
デキムスが、力強く頷く。
「これほどの好機は、二度とない。天が、我々に道を開けろと言っている」
二人の将軍の心が、ついに一つになった。
ビブルスの死によって生まれた、敵の海上封鎖網の、ほんのわずかな綻び。
そして、春の訪れを告げる、強すぎるほどの南風。その二つの好機に、全てを賭ける。
「全船、出航準備!」
デキムスの号令が、港に響き渡った。兵士たちの顔に、三ヶ月ぶりに生気が戻る。
数日後、彼らが待ち望んだ南風が、アドリ海に吹き荒れた。
「今だ!全軍、乗船!」
アントニウスの咆哮が、風の轟音と競うように響く。
兵士たちは、寄せ集めの船団へと我先にと乗り込んでいく。
帆は、今にも張り裂けんばかりに風を孕み、船は信じられないほどの速度でギリシャへと向かう。
アントニウスは、先頭の船の甲板に立ち、叩きつける飛沫をものともせず、遥か東の水平線を見据えていた。
彼の顔には、数ヶ月にわたる焦燥の色はなく、戦場へと向かう者だけが持つ、喜びに満ちた獰猛な光が宿っていた。
ブルンディシウムでの長い賭けの時は、終わりを告げたのだ。
だが、彼らの前には、神さえも予測不能な、嵐の海が広がっている。
この無謀な航海の先に、果たして活路は開けるのか。答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
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