第七章:生存戦略
絶望が、伝染病のようにカエサル軍の陣営を蝕んでいた。
オリクムの港から見せつけられた、あの残忍な示威行為。
それは、兵士たちの心から希望という名の光を奪い去るには十分すぎる光景だった。我々は孤立した。
援軍も、補給も、そして故郷へ帰る船さえもない。
その冷徹な事実が、冬のギリシャの寒風よりも鋭く、兵士たちの骨身に沁みた。
「……計算が、通用しない」
司令部の天幕で、レビルスはギリシャの地図を睨みつけながら、誰に言うでもなく呟いていた。
彼の専門分野は、兵站と工兵作業。
物資を動かし、道を切り拓き、堅牢な陣地を築くこと。
その全ては、予測可能な変数に基づいた計算の上に成り立っている。
だが、今、彼らが直面しているのは、計算の前提となるべき「補給」そのものが完全に断たれたという、予測不能な事態だった。
このままでは、兵糧が尽き、士気が地に落ち、ポンペイウスの大軍に包囲されて、ただ死を待つだけ。
そんな未来予測だけが、無慈悲なまでに明瞭に、彼の頭脳に描き出されていた。
「何を弱気な顔をしている、レビルス」
天幕の入り口から、カエサルの声が響いた。
彼は、まるで散歩でもしてきたかのような落ち着き払った様子で中へ入ってくると、レビルスの隣に立ち、同じように地図を見下ろした。
「計算が通用しないのなら、計算すべき盤そのものを変えればいい。我々は今、戦争をしているのではない。生き残るための戦いをしているのだ。戦術目標はただ一つ、『生存』。そのための計算を、君に命じる」
カエサルの言葉には、不思議な力があった。
それは、絶望的な状況でさえも、一つの解決すべき「問題」として捉え直させる、知的な力だ。
レビルスの目に、再び思考の光が戻る。生存戦略。
そのための変数は何か。食料、兵士の士気、敵の動き、そして……イタリアに残したアントニウス。
「まず、我々は動く」
カエサルは、地図上のいくつかの港町を指でなぞった。
「オリクムに籠城していては、ジリ貧だ。周辺の都市を制圧し、現地で食料を徴発する。敵の支配地域を切り取り、我々の生存圏を拡大させるのだ。敵に、我々がまだ死んでいないこと、そして、攻勢に出る力さえ残していることを見せつけろ。ポンペイウス軍を心理的に牽制するのだ」
それは、守りではなく、攻めることで生き残るという、あまりにも大胆な発想だった。
兵力で圧倒的に劣るにもかかわらず、だ。
「そして、最も重要な任務だ」
カエサルは、アドリア海を挟んでイタリア側を指し示した。
「アントニウスに、海を渡れと伝え続けろ。あらゆる手段を使ってだ」
そこから、三ヶ月間にわたる絶望的な戦いが始まった。
カエサル軍は生き残るために必死の作戦を展開する 。
カエサルは言葉通り、本隊を率いて次々と周辺都市を攻略した 。
その電撃的な動きは、ポンペイウスの陣営を混乱させ、カエサル軍が本当に孤立しているのかどうか、疑心暗鬼にさせた。
一方、レビルスは後方に残り、カエサルの戦略を現実の数字へと落とし込む作業に没頭した。
彼は、占領した町から徴発した食料を厳密に管理し、兵士一人一人に配分されるパンの量をグラム単位で計算した。
兵士たちの不満が爆発しないぎりぎりの線を見極め、飢えという見えざる敵から、軍団を守り抜いた。
そして、彼のもう一つの戦場は、アドリア海だった。
レビルスは、自らが築き上げた情報網を駆使し、イタリアのアントニウスへ指令を送り続けることに全力を注いだ 。
「シルウァヌス!」
「ここに」
エルフの斥候が、音もなくレビルスの前に姿を現す。
「この密書を、ブルンディシウムのアントニウスへ届けろ。どんな危険を冒してでもだ」
「御意に」
シルウァヌスは、その超人的な感覚を頼りに、敵の海上封鎖線を突破しうる、最も潮の流れが速く、かつ岩礁の多い危険な海域を、一艘の小舟で渡っていった。
それは、生還の保証などどこにもない、決死の任務だった。
またある時は、ギリシャ人の商人を金で雇い、ワインの樽の底に密書を隠して、封鎖線を越えさせようと試みた。
ある時は、鳥の脚に手紙を結びつけ、万に一つの可能性に賭けて、イタリアの空へと放った。
『今すぐ海を渡れ。躊躇うな。好機は一度しか訪れない』
送るメッセージは、常に簡潔で、そして強い命令だった。
レビルスは、アントニウスの性格を計算に入れていた。
あの激情家は、下手に状況を説明すれば、逆に混乱し、決断を誤る可能性がある。
必要なのは、カエサルの絶対的な命令という、彼を動かすための一押しだけだ。
だが、送った伝令からの返信は、一つもなかった。
彼らが敵に捕まったのか、嵐に飲まれたのか、あるいは、無事に辿り着いたものの、アントニウスが動けない状況にあるのか。何も分からない。
時間だけが、無情に過ぎていく。
兵士たちの顔には、疲労と栄養不足の色が濃くなっていく。
いつ終わるとも知れないこの孤立状態が、じわじわと、しかし確実に、カエサル軍の生命力を削り取っていた。
冬が過ぎ、春が訪れようとしていた。
上陸してから、すでに三ヶ月が経過していた 。
レビルスは、毎晩のように天幕でアドリア海の方角を見つめた。彼の計算は、すでに限界だった。
あらゆる手段は講じた。
あとは、計算不能な領域……アントニウスの決断と、海の女神の気まぐれに、全軍の運命を委ねるしかなかった。
(頼む、アントニウス……動いてくれ)
その祈りは、計算屋の彼が、初めて神に捧げた、数字に基づかない、ただの人間としての、心の叫びだった。
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