第六章:ローマの三つの戦場
ギリシャでカエサルが孤立無援の戦いを強いられている頃、帝国の心臓であるローマもまた、見えざる敵との、終わりの見えない戦争の只中にあった。
カエサルの代理人として首都を預かるガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス・バルブスの二人にとって、その戦場は三つも存在した。
一つ目の戦場は、彼らの足元、ローマそのものだった。
法務官カエリウスが扇動した反乱は、アントニウスの軍団によって、すでに武力で鎮圧されていた。だが、その勝利は、新たな敗北の始まりに過ぎなかった。
ローマの街路で、ローマの兵士が、ローマの市民を殺傷した。
その事実は、カエサルが掲げる「慈悲」の政策に、消すことのできない泥を塗りつけた。
「街の空気は、最悪だ」
書斎で報告書を読んでいたバルブスが、苦々しく吐き捨てた。
「市民たちは、我々を恐怖の目で見ている。カエリウスは死んだが、彼が訴えた借金問題の火種は、むしろ大きく燃え上がっている」
「問題は、カエリウスの死に同情が集まっていることだ」
オッピウスは、静かだが重い声で応じた。
「彼を、民のために立ち上がった悲劇の英雄と見なす風潮さえある。このままでは、第二、第三のカエリウスが現れるだろう。我々の戦いは、反乱を鎮圧した後にこそ、本当の戦いが始まるのだ。つまり、人心をいかに繋ぎ止めるか、というな」
二人の戦いは、もはや剣ではなく、噂と、情報と、そして市民への食料配給という、より繊細で困難なものへと移行していた。
二つ目の戦場は、西の果て、ヒスパニアにあった。
カエサルが統治を任せたはずの副官、クィントゥス・カッシウス・ロンギヌスの悪政が、ローマにまで不吉な報せとして届き始めていたのだ。
「ロンギヌスは、度を越した収奪と、目に余る傲慢さで、ヒスパニアの民はおろか、そこに駐留する我々の兵士たちの心さえも失いつつある、と……」
オッピウスが、ヒスパニアの密偵から届いた手紙を読み上げる。
それは、まだ反乱には至っていないものの、いつ火薬庫が爆発してもおかしくない、極めて危険な状況を示唆していた。
「あの地には、まだポンペイウス派の残党が潜んでいる。もし、ロンギヌスへの不満が兵士たちの反乱という形になれば、彼らがそれに乗じないはずがない」
バルブスは、頭を抱えた。
「なぜ、カエサル様は、あれほどの男に重要な属州を任されたのか……」
「カエサル様とて、全てを見通せるわけではない。今は、我々がその綻びを繕うしかない。本格的な反乱に発展する前に、手を打たねば」
二人は、すぐさま対策を協議した。
ヒスパニアに駐留する別の軍団の、信頼できる百人隊長へ密使を送り、ロンギヌスの動向を監視させ、万一の事態には彼を拘束する権限を与える。
それは、カエサル不在の中で行う、極めて危険な賭けだった。
そして、三つ目の、最も恐ろしい戦場は、南の海を越えたアフリカにあった。
クリオの軍団を壊滅させた共和派の将軍アッティウス・ウァルスと、ヌミディア王ユバ。
彼らは、その勝利に満足することなく、アフリカ全土から兵をかき集め、巨大な軍団を編成しつつあった。
「その数、報告によれば、すでに十個軍団を超える、と」
バルブスの声が、乾いた響きを帯びる。
「ポンペイウスがギリシャで敗れたとしても、彼らにはまだアフリカという巨大な拠点と、無傷の大軍が残る。この内乱は、ギリシャでは終わらんのだ……」
それは、この戦争の底なしの深淵を、二人に見せつける事実だった。
カエサルがギリシャで勝利しても、それは、この巨大な多頭の蛇の、一つの首を落とすに過ぎないのかもしれない。
オッピウスとバルブスは、書斎の窓から、夕闇に沈むローマの街を見下ろした。
市民たちは、まだ何も知らない。自分たちの街に渦巻く不満、そして遠い属州で生まれつつある二つの巨大な脅威について。
「まるで、我々は巨大な堤防に空いた、三つの穴を手で塞いでいるようなものだ」
オッピウスが、ぽつりと呟いた。
「一つの穴を塞いでも、別の穴から水が溢れ出す。そして、我々の指の力は、無限ではない」
「だが、やるしかない」
バルブスが、その言葉を継いだ。
「カエサル様が、ギリシャで戦っておられるのだ。我々が、彼の背中を守らずして、誰が守るというのだ」
二人は、言葉なく頷き合った。彼らの戦場に、剣も盾もない。
あるのは、情報と、金と、そして、張り巡らされた人間関係という名の、見えざる糸だけだ。
その糸を巧みに操り、帝国という名の巨人が崩れ落ちるのを、ただ食い止める。
カエサルがギリシャから帰還する、その日まで。
彼らの孤独で、終わりの見えない戦いは、続く。ローマの喧騒の裏側で、二人の男は、帝国の運命そのものを、その双肩に背負っていた。
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