第五章:最初の拠点と骸の浜
ギリシャの夜明けは、イタリアのそれとはどこか違う、硬質で冷たい光を帯びていた。
パライステの浜に上陸したカエサル軍は、疲労困憊の兵士たちに休息を与える間もなく、次なる行動を開始した。
最初の目標は、最も近い港町オリクム。
この地を確保できなければ、兵士たちは寒風吹きすさぶ浜辺で、敵の大軍を待つことになってしまう。
「全軍、オリクムへ向けて進軍を開始せよ!」
カエサルの号令一下、軍団は一つの生き物のように動き出した。
奇襲上陸の成功という緒戦の勝利は、兵士たちの士気を高めている。
彼らは、迅速に、そして秩序正しく、未知の土地へと足を踏み入れていった。
オリクムの町は、カエサル軍接近の報にパニックに陥っていた。
ポンペイウス派の守備隊長ルキウス・トルクァトゥスは、城門を固く閉ざし、市民と兵士を鼓舞して抵抗の準備を整えようとした。
だが、彼の試みは無駄に終わる。
「相手はカエサルだぞ!ガリア全土を平らげた、あのカエサルだ!」
「我々ごときが敵う相手ではない!」
市民たちは武器を取ることを拒否し、守備隊の兵士たちさえも、カエサルの圧倒的な名声の前に戦意を喪失していた。
彼らはトルクァトゥスを置き去りにして、次々と城門を開いてしまう。
抵抗を諦めたトルクァトゥスは、自らカエサルの前に進み出て降伏した。
こうしてカエサル軍は、一滴の血も流すことなく、ギリシャにおける最初の拠点を確保した。
カエサルはトルクァトゥスを寛大に扱い、町の住民には略奪行為を一切禁じた。
その規律正しい振る舞いは、敵地の人々の恐怖を安堵へと変えさせた。
天幕が設営され、兵士たちの間にようやく休息の空気が流れる。作戦は、今のところ完璧に進んでいるように見えた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
拠点を確保したカエサルは、すぐさま天幕に将軍たちを招集し、軍議を開いた。
議題はただ一つ、情報収集だ。
「我々は敵地にいる。今、最も優先すべきは、周辺の地理と敵軍の配置を正確に把握することだ。ポンペイウスの本隊がどこにいるのか、そして、我々の渡海を許してしまった敵艦隊がどう動いているのか」
カエサルの言葉に、レビルスが頷く。
「斥候部隊を複数、各方面へ派遣します。陸路と、海岸線の両方を探らせるべきです」
その言葉通り、レビルスの部下であるエルフの斥候シルウァヌスをはじめ、選りすぐりの兵士たちからなる偵察部隊が、闇に紛れてオリクムの町を出て行った。
翌日の午後、斥候の一隊が、緊張した面持ちで帰還した。
彼らは戦闘に巻き込まれた様子はなかったが、その報告は、天幕にいた将軍たちの表情を強張らせるには十分だった。
「近隣の村で、商人たちから情報を得ました。ポンペイウス派の艦隊司令官ビブルスは、我々の渡海を知り、激怒しているとのこと。手当たり次第に船を拿捕し、我々が上陸したと思われるこのオリクム周辺の海域を、血眼になって捜索している、と」
その報告は、見えざる敵の存在を、すぐそこまで迫った脅威として、将軍たちに認識させた。
安堵の空気は消え、誰もがアドリア海の向こう、黒々とした水平線に意識を向け始めた。
そして、その脅威は、翌日、最悪の形で彼らの目の前に姿を現した。
夜が明けた頃、見張りの兵士が絶叫した。
「て、敵襲!敵艦隊だ!」
オリクムの港の外、水平線が、黒い船影で埋め尽くされていた。
ポンペイウス派のガレー船が、整然とした隊列を組み、港を威圧するように包囲している。
だが、彼らは町に攻撃を仕掛けてはこなかった。
代わりに、彼らはゆっくりと、何か巨大なものを曳航してきた。
それは、カエサル軍の兵士たちが、数日前に自分たちの命を預けた、あの輸送船団だった。空になった、三十隻ほどの船。
将軍たちは、息を呑んでその光景を見つめていた。敵が何をしようとしているのか、その邪悪な意図を誰もが感じ取っていた。
その答えは、すぐさま示された。
ポンペイウス艦隊の一隻から、合図が送られる。
すると、曳航されてきた輸送船の一隻の甲板に、数人の男たちが引きずり出された。
数日前まで、兵士たちと共に嵐の海を渡った、船長と船員たちだった。
彼らは、オリクムの港から見えるように、船のマストに磔にされる。
そして、兵士たちの目の前で、容赦なく処刑された。
悲鳴を上げる間もなかった。
処刑が終わると同時に、船には火矢が放たれ、巨大な松明となって燃え上がったのだ。
その光景が、一隻、また一隻と、繰り返される。
カエサル軍の兵士たちは、自分たちが占領した港の目の前で、仲間たちが、そして自分たちが乗ってきた船が、見せしめとして焼き払われていく地獄絵図を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
それは、ビブルスによる、冷酷で残忍な示威行為だった。
お前たちの生命線は、完全に断たれた。
援軍も、補給も、そしてイタリアへ帰る船も、もはや存在しない。
お前たちは、このギリシャの地で、孤立無援のまま死ぬのだ、と。
やがて、全ての輸送船が黒い骸となって海に沈むと、ポンペイウスの艦隊は、勝ち誇るように、静かにその場を去っていった。
オリクムの港には、死のような沈黙と、黒焦げになった船の残骸から立ち上る不吉な煙だけが残された。
緒戦の勝利に沸いた空気は、一瞬にして凍りつき、兵士たちの心を、底知れぬ絶望と、敵への静かな憎悪が満たしていく。
カエサルとレビルスは、言葉なく、その光景を見つめていた。
計算も、奇跡も、もはやない。ここにあるのは、援軍も補給も断たれたという冷徹な現実と、敵の底知れぬ悪意だけだった。
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