第四章:不可能への挑戦
晩秋のブルンディシウム(現在のブリンディジ)は、重く垂れ込めた雲と、アドリア海から吹き付ける凍えるような風に支配されていた。
港には、カエサルが率いる遠征軍の主力が集結していたが、その雰囲気はローマを出発した時の熱狂とは程遠い、張り詰めた緊張感に満ちていた。
兵士たちの視線は皆、一つのものへと注がれている。港に並んだ輸送船の、あまりにも頼りないその数に。
「計算通り、と言うべきでしょうか」
カエサルが陣取る司令部の天幕で、レビルスは最終的な報告書を提出しながら、自嘲気味に言った。
彼の不眠不休の計算が導き出した答えは、残酷なまでに現実を裏付けていた。
輸送船は、全軍を一度に運ぶには全く足りなかった。全軍団の半数を乗せるのがやっと。つまり、ギリシャへ渡るには、軍を二つに分け、船団がイタリアとギリシャを往復する必要があった。
「ポンペイウスの艦隊が制海権を握る海を、二度も渡れ、と。普通に考えれば自殺行為だな」
カエサルは、レビルスが作成した膨大な資料の結論部分だけを追うと、静かに呟いた。その声に、しかし絶望の色はない。
「ですが、道は一つしかありません」
レビルスが応える。
「冬の嵐です。敵艦隊も、この嵐の中では警戒が疎かになる。その僅かな隙を突き、第一陣が敵地への上陸を強行する。それ以外に、活路を開く術はありません」
それは、計算という理性の極致が生み出した、狂気としか思えない作戦だった。
天候という最大の不確定要素を味方につけ、敵の油断という人間心理の隙を突く。成功の確率は、決して高くない。だが、ゼロではなかった。
「よし、決めた」
カエサルは、レビルスの報告書から顔を上げると、傍らに控える将軍たちを見渡し、宣言した。
「我々は、嵐の中、海を渡る。第一陣は私が率いる。レビルス、君も私と共に来てもらう。残る第二陣は、副司令官アントニウスに任せ、船団の帰りをここで待たせる」
その決断に、歴戦の将軍たちでさえ息を呑んだ。
だが、カエサルの瞳には、一切の迷いもなかった。不可能を可能にするという、彼の本質そのものが、その決断を支えていた。
数日後、アドリア海が牙を剥き、空が鉛色に染まった夜。
カエサルの第一陣は、嵐の轟音に紛れて、ブルンディシウムの港を静かに出航した。
船は木の葉のように揺れ、兵士たちは容赦なく叩きつける波と、船酔いとの戦いを強いられる。経験豊富な百人隊長たちの怒声だけが、辛うじて部隊の秩序を保っていた。
レビルスは、司令官が乗る船の船室で、地図と睨み合っていた。
揺れでまともに立っていることもできない。
だが、彼の頭脳は、この嵐の先にある上陸地点のこと、そして、敵の迎撃部隊が現れた場合の、幾通りもの対応策を計算し続けていた。
「計算屋。たまには空を見たらどうだ」
不意に、カエサルが声をかけた。彼は、マントを濡らしながらも、甲板の手すりに掴まり、荒れ狂う海を平然と見つめている。
「閣下こそ。このような嵐、楽しんでおられるようにさえ見えます」
「ああ。計画通りにいかんからな、人生は」
カエサルは、心底楽しそうに笑った。
「この嵐も、我々を殺すかもしれないし、あるいは、敵の目から我々を隠してくれるかもしれん。どちらに転ぶか分からん。だからこそ、面白い」
常人には理解しがたいその言葉に、レビルスはただ苦笑するしかなかった。
この男は、この予測不可能な世界そのものを、盤上として楽しんでいるのだ。
船は、一晩中、死と隣り合わせの航海を続けた。
巨大な波が甲板を洗い、マストは根元から折れんばかりにしなる。
兵士たちは、ただ神に祈り、あるいは家族の名を呟きながら、この終わりの見えない夜が明けるのを待つしかなかった。
そして、夜が明け、嵐がわずかにその勢いを弱めた頃、見張りの兵士がかすれた声で叫んだ。
「り、陸だ!陸が見えるぞ!」
その声に、船内の誰もが甲板へと這い出してきた。
鉛色の雲の切れ間から、陽光が差し込み、その先に、黒々としたギリシャの山々がその姿を現していた。
レビルスの計算が示した航路は、完璧だった。
敵の巡視船団の網を、嵐に紛れてくぐり抜けたのだ。
「見事だ、レビルス。君の計算が、我々に道を開いた」
カエサルは、上陸用の小舟に乗り移りながら、レビルスの肩を叩いた。
その顔には、徹夜の疲労と、不可能を成し遂げた興奮が入り混じっていた。
カエサル軍は、パライステと呼ばれる浜に、ほとんど抵抗を受けることなく上陸を開始した。
兵士たちは、冷え切った濡れた体に鞭打ち、迅速に陣地を構築していく。
彼らの顔には、死の淵から生還した安堵と、ついに敵地へと足を踏み入れたのだという、新たな決意が浮かんでいた。
奇跡は、起こった。
不可能への挑戦は、最初の段階を成功させたのだ。
だが、誰もが知っていた。これは始まりに過ぎない。
輸送船団は、すぐさまアントニウスの第二陣を迎えに、再びあの嵐の海へと戻っていかねばならないのだから。
そしてこの地には、自分たちの何倍もの戦力を誇るポンペイウスの大軍が待ち構えている。
レビルスは、ギリシャの乾いた砂をひとしきり掴むと、静かに手を払った。
彼の頭脳は、すでに次の計算を始めている。この地で生き残り、そして勝つための、あまりにも変数の多い、次なる方程式を。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




