第三章:若き獅子たちの見た、独裁官の出発
独裁官カエサルが、ギリシャ遠征へと出発する日。
首都ローマは、奇妙な静けさと、熱病のような興奮が混ざり合った、特有の空気に満ちていた。
冬の冷たい空気を震わせて、軍靴の音と、金属の擦れる音が響き渡る。
その光景を、フォルムを見下ろす神殿の石段から、二人の若者が冷静な目で見つめていた。
ガイウス・オクタウィアヌスと、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ。共に一四歳。まだ、歴史の表舞台に立つには若すぎる獅子たちである。
「すごい熱気だ。まるで、カエサル様が神か何かのように見えている」
アグリッパが、眼下を埋め尽くす市民たちの姿を見て、感嘆とも呆れともつかない声で言った。
市民たちは、遠征軍の隊列を遠巻きに眺めながら、ある者はカエサルの名を呼び、ある者は不安げに顔を曇らせ、またある者は、ただ呆然と、歴史が動く瞬間を眺めている。
期待と恐怖が、モザイク模様のようにローマの街を覆っていた。
「神ではないさ、アグリッパ」
オクタウィアヌスが、静かに首を横に振った。病弱さゆえか、彼の顔色は常に青白い。だが、その瞳には、年齢にそぐわぬ冷徹な光が宿っていた。
「彼らは、神を見ているんじゃない。自分たちの『期待』の姿を見ているんだ。借金を軽くしてくれるカエサル、土地をくれるカエサル、そして何より、この忌々しい内乱を終わらせてくれるカエサル。市民にとって、カエサルはもはや個人ではない。彼らの願いを叶えるための『機能』そのものなのだよ」
その分析は、あまりにも的確で、そして冷やかだった。
アグリッパは、隣に立つ親友の横顔に、改めて畏敬の念を抱く。自分には見えないものを、この男は常に見ている。
やがて、ひときわ大きな歓声が上がった。
カエサルが、緋色のマントを翻し、馬上の人となったのだ。彼は、市民たちの歓声に片手で応えながらも、その視線は常に前を見据えている。
過去の勝利に浸るでもなく、民衆の熱狂に酔うでもない。ただ、遥か東の戦場だけを見つめているかのように。
「だが、期待は失望に変わるのも早い」
オクタウィアヌスが、独り言のように呟く。
「もし、大叔父上がギリシャで敗れるようなことがあれば、今日、彼を神と崇めているあの歓声は、明日には呪詛の声に変わるだろう。彼らが本当に望んでいるのは、カエサル個人ではない。勝利者だけだ」
「……縁起でもないことを言うな」
アグリッパは、思わず眉をひそめた。
彼の心には、オクタウィアヌスにはない、個人的な痛みが常にあった。
彼の兄、ルキウス・ウィプサニウス・アグリッパは、共和派としてポンペイウスの軍に加わり、今まさにカエサルが討伐しようとしている、そのギリシャにいるのだ。
カエサルの勝利は、兄の死を意味するかもしれない。
だが、カエサルの敗北は、この内乱が再び泥沼化し、ローマそのものが崩壊へ向かうことを意味する。どちらに転んでも、アグリッパにとっては悲劇だった。
「事実を言ったまでだ。見てみろ、アグリッパ」
オクタウィアヌスは、顎でフォルムの一角を示した。
そこには、貴族階級の者たちが、苦々しい表情で遠征軍の出発を眺めている。
「彼らにとって、カエサルはローマを救う英雄などではない。伝統と秩序を破壊する独裁者だ。彼らは、カエサルの敗北を心の底から願っている。だが、その声は小さい。なぜなら、彼らにはもはや、市民を動かす力も、兵士を動かす金もないからだ」
それは、カエサルとその腹心たちが、周到に進めてきた経済戦争の結果だった。
旧来の資産しか持たない保守派貴族は、カエサルが意図的に引き起こしたインフレによってその経済基盤を崩され、もはや政治の舞台で影響力を失いつつあった。
やがて、カエサルが率いる軍団の最後尾が、カペーナ門の向こうへと消えていく。
市民たちの熱狂も、次第に喧騒へと変わり、そして日常のざわめきの中へと溶けていった。まるで、嵐が過ぎ去った後のように。
「行ったか……」
アグリッパが、ぽつりと呟く。独裁官がいなくなったローマは、どこか虚ろで、頼りないものに感じられた。
「ああ。賽は投げられた。いや、投げられ続けている、と言うべきか」
オクタウィアヌスは、静かに石段から立ち上がった。
「行こう、アグリッパ。我々にできることは、ここで歴史を眺めていることじゃない。このローマで何が起こるのか、誰がどう動くのか、この目で全てを見て、全てを学ぶことだ。来るべき時のために」
その言葉に、アグリッパは黙って頷いた。
親友の言う「来るべき時」が何を指すのか、彼にはまだ正確には分からない。だが、それは、自分たちがただの傍観者でいる時代が、やがて終わることを示唆していた。
神殿を後にし、フォルムを横切って歩きながら、アグリッパは心の中で兄に語りかけていた。
(兄さん……どうか、死なないでくれ。だが、カエサル様が負けることも、俺は望めない……)
答えの出ない問いが、彼の心を重く締め付ける。
隣を歩くオクタウィアヌスが、そんな親友の葛藤を見透かしたように、不意に口を開いた。
「案ずるな、アグリッパ。歴史とは、個人の感情では動かせん。だが、個人の才覚は、歴史の流れを掴み、利用することができる。君の才覚は、いずれ必要になる。その時のために、今は心を殺して、学ぶことに集中するんだ」
それは、慰めとは違う、どこまでも現実的で、しかし、アグリッパの存在を強く肯定する言葉だった。
若き獅子たちは、指導者を失ったローマの街を、自らの足で歩き始めた。
彼らの目には、期待と恐怖に揺れる市民の顔が、そして、その水面下で蠢く権力者たちの思惑が、焼き付けられていく。
カエサルとポンペイウスがギリシャで繰り広げる壮大な戦争とは別の、もう一つの静かな戦争が、今、このローマで始まろうとしていた。
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