第一章:勝利と敗北の代償
紀元前四八年、冬。
ヒスパニアでの戦役に終止符を打ち、ローマへと凱旋したガイウス・ユリウス・カエサルは、元老院の決議によって正式に独裁官へと就任した。
首都は、内乱の終結が近いという期待と、英雄の帰還を祝う熱狂に包まれていた。
フォルムには市民が溢れ、カエサルの名を呼ぶ声が絶え間なく響き渡り、まるで八年にわたるガリアでの勝利が再現されたかのような祝勝ムードに沸いている。
しかし、その喧騒の中心にいる男の心は、氷のように静謐だった。
その夜、カエサルは公の祝宴を早々に切り上げると、私邸の一室に腹心中の腹心を招集した。
招かれたのは三人。
ローマのあらゆる実務を水面下で掌握するガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス・バルブス。
そして、この内乱におけるカエサルの「頭脳」として、今やその存在を欠くことのできない副将、ガイウス・カニニウス・レビルスであった。
蝋燭の灯だけが揺れる部屋には、重い沈黙が垂れ込めている。
窓の外から届く市民たちの歓声が、まるで別世界の響きのように遠く感じられた。
カエサルは地図が広げられた長机の向かいに座る三人を静かに見つめ、口火を切った。
「して、アフリカの件を」
その声は穏やかだったが、部屋の空気を一層引き締める響きを持っていた。
オッピウスが、カエサルから視線を逸らさぬまま、静かに報告を始める。
「はい。先日、確報が。……ガイウス・スクリボニウス・クリオは、アフリカにて敗死。彼が率いた二個軍団は、壊滅いたしました」
バルブスが苦渋の表情で言葉を継ぐ。
「ヌミディア王ユバと同盟を結んだ共和派の罠に嵌った、と」
クリオの死。
そして二個軍団の喪失。
それは、ヒスパニアでの無血勝利という輝かしい戦果に、暗い影を落とすには十分すぎる凶報だった。
レビルスは息を呑み、カエサルの反応を窺う。
しかし、独裁官の表情に変化はなかった。彼はただ静かに頷くと、まるで他人事のように語り始めた。
「そうか。……クリオには、彼の若さと野心に賭けた」
その声に、部下の死を悼む響きはなかった。あるのは、冷徹な分析と総括だけだ。
「軍事経験の少ない彼に、アフリカという難所を任せるのは、元より大きなリスクを伴う作戦だった。この結末は、私の計算の範囲内だ。だが」
カエサルは、そこで一度言葉を切り、三人、一人一人の顔をゆっくりと見回した。その眼光は、剃刀のように鋭い。
「許容できる失敗は、ここまでだ」
その一言が、この秘密評定の本質を物語っていた。
過去の損失を嘆くのではなく、未来の勝利を確実にするための席。オッピウスが、カエサルの意図を即座に汲み取って問いかける。
「クリオの死は、どのように……」
「英雄として扱え」
カエサルは即答した。
「ローマのために命を捧げた、悲劇の若き英雄としてだ。彼の死をプロパガンダに利用し、市民の愛国心を煽れ。兵士たちの間では、報復心を焚きつける材料とせよ。損失は、そうやって別の価値へと転換させるのだ」
恐るべき合理性。
レビルスは、かつてウクソドゥヌムで降伏兵の両腕を切り落とした主君の姿を思い出していた。
あの時と同じ、感傷の一切を排し、ただ目的達成のためだけに全ての駒を動かす「国家の建築家」としての貌が、そこにはあった。
カエサルは席を立つと、壁に掛けられたギリシャ周辺を示す大地図へと歩み寄った。
アドリア海を挟んで、イタリア半島と向かい合う決戦の地。
彼はその海峡を指でなぞりながら、三人に、いや、レビルス一人に向かって語り始めた。
「クリオの敗北は、一つの駒を失ったに過ぎん。ヒスパニアの勝利も、背後の脅威を取り除いただけのこと。本丸は、ここだ」
カエサルの指が、ギリシャの大地を力強く叩く。
「ポンペイウスとの戦いは、我々の全てだ。これに負ければ、次はない。我々全員が、ローマから消え去るだけだ」
独裁官は、ゆっくりとレビルスの方へ振り返った。
その表情に、先程までの冷徹さはなかった。
そこにあるのは、共に不可能へ挑む者へと向ける、複雑だが静かな信頼の色だった。
「だが、見ての通りだ、レビルス。我々には輸送船が絶対的に足りない。ヒスパニアへ向かう途上、マッシリアの反逆に遭った際、デキムス・ブルトゥスにアレラテで一から艦隊を建造させたのを覚えているな? 1 あの艦隊は、マッシリアを屈服させるためだけのものだ。ギリシャへ全軍団を運ぶには、規模も数も、全く話にならん。そして季節は冬だ。アドリア海の冬の嵐は、熟練の船乗りさえ飲み込む」
彼は再び地図に視線を戻し、敵の拠点を指し示す。
「何より、制海権はポンペイウスが握っている。ビブルスが率いる敵の大艦隊が、アドリア海の全域に網を張っているだろう。常識で考えれば、我々がギリシャへ渡ることなど不可能だ」
カエサルはそこで言葉を止め、再びレビルスを真っ直ぐに見つめた。
「いかなる将軍も、この状況では渡海を狂気の沙汰だと言うだろう。だが、狂気でしか越えられぬ壁というものもある。だからこそ、君が必要なのだ、レビルス」
その声は、命令ではなく、むしろ懇願に近い響きを持っていた。
「私は、戦の常道に則った計画を求めているのではない。数字の理に従う計画が欲しい。この不可能という名の壁に、君の計算でしか見つけられない亀裂を探し出してほしいのだ。たとえ、一本の糸しか通せぬような、僅かな隙間でいい。我々がギリシャへと渡るための、そのための道筋を、計算で示してくれ」
それは、重圧だった。しかし、レビルスの心を砕くようなものではない。
それは、カエサルという男が、レビルスの才能をこの世の誰よりも理解し、絶対の信頼を置いていることの、何よりの証だった。
この途方もない難題は、彼にしか解けないと、カエサルは信じている。
ヒスパニアでの勝利の熱狂も、独裁官就任の祝賀も、今の彼にとっては意味をなさなかった。
彼の頭脳は、すでにアドリア海の荒波と、ギリシャの乾いた大地、そしてそこに待ち受けるであろう、おびただしい数の敵兵を幻視し、無限とも思える変数の海の中へと沈み始めていた。
「……御意に」
絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
カエサルは満足げに一度だけ頷くと、レビルスの肩を軽く叩いた。その仕草に、全ての信頼が込められていた。
「詳細は、明日の公式な軍事評定で伝える。今夜は下がってよい」
オッピウスとバルブスが静かに一礼して部屋を退出していく。レビルスもそれに続こうとした時、カエサルの声が背後から彼だけを呼び止めた。
「レビルス」
振り返ったレビルスが見たのは、独裁官ではなく、一人の男としてのカエサルの顔だった。
ほんの僅かに、その険が和らいでいる。
「ヒスパニアでは、見事だった。君がいなければ、あの勝利はなかっただろう」
それは、二人きりの時にだけ見せる、絶対的なパートナーへの労いの言葉だった。
「……閣下あっての計算です」
そう答えるのが精一杯だった。カエサルは微かに笑みを浮かべると、再び地図に視線を落とした。
その横顔は、もはや次の戦場、ギリシャのことしか見ていなかった。
私邸の廊下を一人歩きながら、レビルスは大きく息を吐いた。
夜の冷気が、火照った思考をわずかに冷ましてくれる。
窓の外では、まだ市民たちの熱狂が続いている。だが、その声はもはや彼の耳には届いていなかった。
彼の内なる世界では、すでに見えざる戦争の火蓋が切って落とされていたのだ。
勝利か、あるいは、ローマからの消滅か。その運命を左右する巨大な計算が、今、始まった。
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