第十三章:東へ
ヒスパニアの強烈な陽光が、コルドゥバの広場を焼き焦がしていた。
イレルダでの勝利の後、カエサルは破竹の勢いでヒスパニア南部へと進軍した。
ポンペイウス派の重鎮であったウァロは、もはや抵抗の意志を持たず、二個軍団とともに降伏した。
これで、ヒスパニア全土が、カエサルの掌中に収まったことになる。
私は、総督官邸の一室で、膨大な書類の山と格闘していた。
戦後の統治体制の確立、協力者への報奨、敵対者への罰金、そしてローマ本国への報告。
勝利の熱狂が去った後に残るのは、常に冷徹で退屈な、数字と文字の羅列だ。
だが、これこそが「統治」の実体である。
「……終わったな、レビルス」
ふと、執務机の向こうから声がかかった。
カエサルだった。
彼は窓辺に立ち、兵士たちの歓声が響く広場を見下ろしていた。
その横顔には、勝利者の傲慢さはなく、ある種の安堵の色だけが浮かんでいた。
「はい、閣下。これで西方の憂いはなくなりました。背後を脅かされることなく、全力でポンペイウス本隊と対峙できます」
「ああ。だが、休んでいる暇はないぞ。ローマへ戻り、そして海を渡らねばならん」
カエサルが振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべようとした、その時だった。
慌ただしい足音が、廊下の静寂を破った。
「閣下! 急報です!」
飛び込んできたのは、泥と汗にまみれた伝令だった。
その表情は蒼白で、唇は震えている。ただならぬ気配に、私はペンを置き、立ち上がった。
伝令は、ヒスパニアからのものではない。その服装、そして漂う潮の香り。海を越えてきた者だ。
「アフリカの……クリオ将軍より、報告であります」
クリオ。
その名を聞いた瞬間、カエサルの表情が引き締まった。
ガイウス・スクリボニウス・クリオ。
かつてはカエサルの政敵でありながら、その才能と借金をカエサルに買い取られ、最も頼もしい盟友となった男。
雄弁家としてはローマ随一だが、軍事指揮官としての経験は浅い。
カエサルは、シチリアを確保した後、彼に四個軍団を与え、アフリカの制圧を任せていた。
「報告せよ」
カエサルの声は、低く、鋭かった。
伝令は、床に膝をつき、絞り出すような声で言った。
「……全滅、であります」
執務室の空気が、凍りついた。
「全滅だと?」
「は、はい……。ヌミディア王ユバの大軍と、ポンペイウス派の軍勢に包囲され……バグラダス川の戦いにて、我軍は壊滅しました。象部隊による突撃を受け、歩兵は逃げ場を失い……」
「クリオは? 彼はどうした」
私が問うよりも早く、カエサルが詰問した。
伝令は、涙をこらえるように顔を伏せた。
「……将軍は、部下たちに『カエサル殿にあわす顔がない』と叫び、退却を拒否されました。そして、敵陣の中へと斬り込み……壮烈な、戦死を遂げられました」
重苦しい沈黙が、部屋を支配した。
窓の外からは、相変わらず勝利を祝う兵士たちの歓声が聞こえてくる。
だが、この部屋の中だけは、まるで墓場のような静けさに包まれていた。
クリオが死んだ。
あの、誰よりも弁が立ち、誰よりも華やかで、そして誰よりもカエサルの勝利を信じていた男が。
「……そうか」
長い沈黙の後、カエサルが口にしたのは、たったそれだけの言葉だった。
彼は、ゆっくりと窓辺に戻り、背中を向けた。
その背中は、いつものように真っ直ぐだったが、私には、ほんのわずかに小さく見えた。
私は、頭の中で素早く計算を修正していた。
感情を押し殺し、事実だけを処理する。それが私の役割だ。
クリオの敗死。
これは、単なる一将軍の死に留まらない。
アフリカ属州は、ローマへの穀物供給の要だ。
そこが完全にポンペイウス派、そしてヌミディア王ユバの手に落ちた。
つまり、ローマは兵糧攻めにあう可能性がある。さらに、シチリア、サルディニアへの側面攻撃の脅威も生まれた。
「……閣下」
私は、意を決して声をかけた。
「……クリオの死は、痛恨です。ですが、我々は立ち止まるわけにはいきません」
「分かっている」
カエサルが振り返った。
その瞳には、もう涙も、感傷もなかった。あるのは、氷のような冷徹な意志だけだった。
「アフリカは一時的に捨て置く。今は、イタリア本国の安定と、ギリシャのポンペイウス撃破が最優先だ。……すぐに、出発の準備をしろ」
「ヒスパニアの統治は、誰に?」
「クィントゥス・カッシウス・ロンギヌスに任せる」
その人選に、私は一瞬、眉をひそめた。
ロンギヌスは確かに有能な会計官だが、その性格には強欲さと残忍さが同居している。
ヒスパニアの住民から搾取し、反感を買う恐れがあった。
だが、今の我々に、他に割ける人材はいなかった。
信頼できる将軍は、すべてギリシャへの決戦に連れて行かねばならないのだ。
「……承知いたしました」
私は、不安を飲み込み、命令を受諾した。
翌日、カエサルは全軍に通達を出した。
クリオの死については、最小限の情報しか伝えなかった。兵の士気に関わるからだ。
我々は、休む間もなくコルドゥバを発ち、「ヘラクレスの道」と呼ばれる街道を東へとひた走った。
ピレネー山脈を越え、ガリア・ナルボネンシスへ。
その行軍速度は、常軌を逸していた。
勝利の余韻に浸る暇などない。カエサル自身が先頭に立ち、不眠不休で馬を飛ばすのだ。
兵士たちも、文句を言いながらも、その背中に必死で食らいついていく。
そして、我々はマッシリアへと戻ってきた。
数ヶ月前、我々がヒスパニアへ向かう際、城門を閉ざして抵抗を宣言した、誇り高きギリシャ植民都市。
その姿は、今や一変していた。
「……見事なものだな」
カエサルが、馬上で感嘆の声を漏らした。
目の前には、巨大な包囲網が完成していた。
陸側を担当したガイウス・トレボニウスは、驚くべき土木技術を駆使していた。
敵の矢や火計を防ぐためにレンガと泥で固めた巨大な攻城塔が、城壁を見下ろすようにそびえ立っている。
その足元には、「筋肉」と呼ばれる頑丈な移動式シェルターが張り巡らされ、工兵たちが安全に城壁の基礎を掘り崩していた。
そして、海。
マッシリア沖には、デキムス・ブルトゥスの艦隊が展開していた。
彼は、急造の艦隊でありながら、マッシリアが誇る精強な海軍を撃破し、さらにポンペイウスが送り込んできたナシディウス率いる救援艦隊さえも、天才的な操船術で退けていた。
陸と海、双方からの完璧な封鎖。
マッシリア市内に、もはや希望は残されていなかった。
街からは、飢えと疫病の気配が漂ってきている。
我々が本陣に到着すると、トレボニウスとデキムス・ブルトゥスが出迎えた。
二人の顔には、長期にわたる包囲戦の疲労とともに、任務を完遂した男の自負が刻まれていた。
「お待ちしておりました、カエサル閣下」
デキムス・ブルトゥスが、快活な声で言った。
「マッシリア側より、降伏の使者が来ております。閣下の到着を待って、城門を開くと」
「ご苦労だった、デキムス。そしてトレボニウス。君たちの働きは、ヒスパニアでの勝利に匹敵する」
カエサルは二人を労い、すぐに降伏調印の儀式へと向かった。
城門が、重々しい音を立てて開かれる。
中から出てきたのは、痩せ細ったマッシリアの有力者たちだった。
かつてカエサルを拒絶した傲慢さは消え失せ、ただ慈悲を乞う哀れな老人たちの群れとなっていた。
だが、その中に、あの男の姿はなかった。
ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。
コルフィニウムでカエサルに赦されながら、恩を仇で返し、このマッシリアで防衛戦を指揮していた頑迷な共和主義者。
「ドミティウスは?」
カエサルが問うと、マッシリアの代表者は震えながら答えた。
「……昨夜、嵐に紛れて、船で脱出いたしました。我々を見捨てて……」
カエサルは、短く鼻を鳴らした。
「逃がしたか。……まあいい。彼には、また別の戦場で会うことになるだろう」
カエサルは、マッシリアに対して、驚くべき寛容さを示した。
街の略奪を禁じ、市民の生命と財産を保障したのだ。ただし、武装と艦隊、そして公金はすべて没収された。
マッシリアは、その独立を失い、ローマの一都市となった。
入城したカエサルは、マッシリアのアポロン神殿に本営を置いた。
夕暮れ時、私は神殿のテラスで、カエサルと共に港を見下ろしていた。
沈みゆく太陽が、海面を赤く染めている。
その赤は、アフリカの砂漠で流されたであろう、クリオと兵士たちの血の色を連想させた。
西方の戦いは終わった。
ヒスパニアの七個軍団を無力化し、背後の脅威マッシリアを平定した。
戦略的には、大勝利と言っていい。
だが、失ったものもまた、大きかった。
「……レビルス」
カエサルが、静かに口を開いた。
「この海の色は、血の色に見えるか? それとも、明日の朝日の予兆に見えるか?」
「……私には、分かりません。ただ、今は、弔いの色に見えます」
「そうか」
カエサルは、それ以上何も言わなかった。
ただ、その横顔は、ヒスパニアで勝利した時よりも、遥かに深く、険しいものになっていた。
神々が我々に与える試練は、まだ終わらない。
計算外の変数が、次々と我々を襲う。
アフリカでの敗北は、カエサルの「不敗」の神話に、最初のひびを入れたのだ。
このひび割れが、やがて崩壊につながるのか、それとも、より強固な伝説への試金石となるのか。
それは、まだ誰にも計算できない。
その時、神殿の階段を上ってくる足音が聞こえた。
ローマからの公式な使者だ。
その手には、紫色の封蝋が施された書状が握られている。
私は直感した。
それが、新たな時代の幕開けを告げるものであると。
そして、カエサルという男が、もはや「一将軍」という枠には収まりきらない、怪物的な存在へと変貌しようとしていることを。
「……行こう、レビルス」
カエサルは、振り返った。
その瞳には、先ほどまでの感傷は消え、次なる獲物を狙う猛獣の光が宿っていた。
「ローマが、私を呼んでいる」
我々は、東へ向かう。
その先にあるのは、栄光か、破滅か。
確かなのは、もう後戻りはできないということだけだった。
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