第十二章:不在の都
カエサルがローマを不在にして、すでに数ヶ月が過ぎていた。
その間、首都は、かつてないほどの緊張と、そして、血の匂いに、満たされていた。
法務官レピドゥスの官邸は、今や、ローマに残された、数少ない統治者たちの、重苦しい会議の場と化していた。
「…これが、貴官の言う、『秩序の回復』かね。アントニウス殿」
レピドゥスは、窓の外に広がる、フォルムの光景を、苦々しげに見つめながら言った。
そこには、武装した兵士たちが、まるで占領軍のように、三歩に一人、五歩に一人という間隔で、市民たちを監視していた。
「街は、静かになった。だが、それは、墓場の静けさだ。市民は、恐怖に怯え、我々を、もはや解放者とは見ていない。ただの、新たな圧制者として、見ている」
数週間前、護民官であったマルクス・カエリウスが、深刻化する債務問題に乗じて、民衆を扇動し、反乱を起こした。
その反乱を、イタリア本土の最高指揮権を預かるマルクス・アントニウスは、軍を動かし、武力で、完全に鎮圧したのだ。
ローマの聖なる市街地で、ローマ市民の血が、ローマ兵の剣によって、流された。
「秩序を守るための、必要悪だった」
アントニウスは、椅子に深く腰掛けたまま、悪びれる様子もなく、言い放った。
「カエリウスのような扇動者を放置しておけば、この都は、無政府状態に陥っていた。私は、カエサル閣下から預かった、この都の秩序を、守った。それだけだ」
「市民に刃を向けて、守る秩序など、あってはならん!」
レピドゥスの、理想に燃える声が、空しく響いた。
その二人の間に、影の実務家、オッピウスとバルブスが、静かに割って入った。
「お二方のお考えは、どちらも、理解できます」
オッピウスが、その感情の読めない声で言った。
「ですが、問題は、この一件で、市民のカエサル派への支持が、確実に、揺らいでいるという事実です。バルブスが調査したところ、カエリウスの反乱の後、カエサル閣下を支持するという市民の声は、三割近く、減少している」
「だから、言ったのだ!」
とレピドゥスが声を荒げる。
「強硬な手段は、必ず、更なる反発を招くと!」
「では、どうすればよかったのだ!」
とアントニウスが吼える。
「貴官の理想論で、暴徒が鎮まるか!」
その、決して交わることのない議論が、不意に、断ち切られた。
一人の伝令が、ヒスパニアから、カエサルの密書を携えて、到着したのだ。
天幕の中は、水を打ったように、静まり返った。ヒスパニアでの戦いの趨勢が、ここにいる全員の、運命を左右する。
バルブスが、震える手で封蝋を解き、その短い文面を、読み上げた。
「…イレルダにて、アフラニウス、ペトレイウス、降伏。七個軍団、無血にて、これを平定せり…」
「…おお!」
アントニウスが、歓喜の声を上げた。オッピウスとバルブスも、安堵の表情を浮かべている。
だが、レピドゥスの顔は、晴れなかった。彼は、この吉報の裏に、必ず、何かがあると、予感していたからだ。
そして、その予感は、的中した。
「…続きがある」
バルブスが、かすれた声で、言った。
「…カエサル閣下は、この勝利をもって、ローマの統治を、盤石にする、と。そのために、法務官レピドゥスに、民会を召集させ、自らを、独裁官に指名せよ、との、ご命令だ…」
その瞬間、レピドゥスは、天と地が、ひっくり返るような、眩暈を覚えた。
独裁官。
それは、共和政ローマにおける、禁断の、そして、最強の権力。
カエサルは、ついに、その仮面を脱ぎ捨て、法を、そして、伝統を、完全に、踏み越えようとしている。
レピドゥスが、命を賭けて守ろうとしてきた、カエサルの行動の「合法性」という、最後の砦が、今、カエサル自身の手によって、内側から、爆破されようとしていた。
彼の苦悩は、もはや、誰にも理解できない、孤独な深みへと、沈んでいくしかなかった。
同じ頃、フォルムを歩くオクタウィアヌス、アグリッパ、そしてマエケナスの三人は、都を覆う、重苦しい空気を、肌で感じていた。
アントニウスの兵士たちが、市民を、まるで罪人のように、威圧している。カエリウスの支持者たちが、見せしめのように、処刑された広場は、まだ、生々しい血の匂いが、こびりついているようだった。
「…ひどい有様だな」
アグリッパが、呟いた。
「これでは、市民を守るための軍ではなく、市民を支配するための、暴力装置だ。これでは、兵士たちの心も、いずれ、荒んでいく」
「問題の根は、もっと深い」
人の心の機微と、経済の流れを読む天才、マエケナスが、静かに言った。
彼は、両替商や、パン屋の店先で、市民たちが交わす、かすかな囁き声に、耳を澄ましていた。
「カエリウスは、確かに、危険な扇動者だった。だが、なぜ、あれほど多くの市民が、彼の甘言に乗ってしまったのか。それは、彼らが、借金という、日々の生活を破壊する、現実の脅威に、苦しめられているからだ。この根本原因を解決しない限り、第二、第三のカエリウスは、必ず、また現れる」
オクタウィアヌスは、黙って、二人の親友の言葉を聞いていた。
彼の、病弱な体の奥深くで、冷徹な思考が、回転していた。
レピドゥスの、高潔だが、現実離れした、理想論。
アントニウスの、秩序を保つが、人心を離反させる、腕力。
そして、カエリウスの、市民を熱狂させるが、国家を破滅させる、扇動。
その、どれもが、今のローマを、救うことはできない。
「…第三の道が、必要だ」
オクタウィアヌスが、静かに、しかし、絶対的な確信を込めて、呟いた。
「第三の道?」
アグリッパが、訝しげに、聞き返した。
「ああ」
とオクタウィアヌスは頷いた。
「レピドゥス殿の理想でもなく、アントニウス殿の腕力でもない。市民を、恐怖で支配するのでもなく、施しで堕落させるのでもない。彼らに、法の下での、公平な救済と、そして、未来への、確かな希望を示すこと。それこそが、この都を、真に、救う道だ」
その言葉は、まだ十四歳の少年が語るには、あまりにも、老成していた。
だが、アグリッパとマエケナスは、その言葉の奥にある、恐るべき知性と、そして、未来のローマを、自らが統治するという、底知れない野心の輝きを、確かに、見て取っていた。
カエサル不在の都で、一つの時代が、暴力と共に、終わろうとしていた。
そして、その瓦礫の中から、全く新しい時代の支配者となるべき、若き獅子たちが、静かに、その爪を、研ぎ始めていた。
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