第十一章:無血の勝利と次なる手
ポンペイウス軍の陣営は、もはや軍隊としての体をなしていなかった。
兵士たちは、指揮官の命令を公然と無視し、日中はカエサル軍の兵士たちと酒を酌み交わし、夜は故郷にいる家族への手紙を書いていた。
彼らの心は、もはやこのヒスパニアの乾いた大地にはなく、遠いイタリアへと飛んでいた。戦いは、事実上、終わっていた。
だが、二人の指揮官、アフラニウスとペトレイウスだけが、その現実を受け入れられずにいた。
その時、天幕の外が、にわかに騒がしくなった。
二人が外へ出ると、そこには、信じがたい光景が広がっていた。
ポンペイウス軍の、全ての軍団の、筆頭百人隊長と、旗手たちが、整然と列をなし、二人の前に立っていたのだ。彼らは、もはや何の敬意も払わぬ、冷たい目で、かつての司令官を見据えていた。
一人の、最も年長の百人隊長が、一歩前に進み出た。
「アフラニウス将軍、ペトレイウス将軍。我々は、もはや、戦いません」
その声は、静かだったが、いかなる命令も覆すことのできない、絶対的な決定事項として響いた。
「我々は、カエサル殿と、和平を結ぶことに決めました。我々の敵は、カエサル軍ではない。ローマ人を殺させる、この内乱そのものです。もし、貴殿方が我々の決定に従えないというのであれば、我々は、貴殿方をここに残し、全軍で、カエサル殿の下へ投降するまでです」
それは、軍隊という組織において、決してあってはならない、下からの反乱だった。
ペトレイウスが、屈辱に唇を噛む。だが、アフラニウスは、まるで魂が抜け殻になったかのように、力なく頷いた。
「…分かった。君たちの、勝ちだ。私が、カエサル殿の下へ、降伏の使者として赴こう」
こうして、ヒスパニアの戦いは、その最後の瞬間を迎えた。
アフラニウスとペトレイウスは、もはや誰の敬礼も受けることなく、丘の上の陣営から、カエサルの元へと、ただ二人、歩いて下っていった。
カエサルは、降伏を申し出る二人を、礼節をもって迎えた。彼は、決して、敗者を辱めるようなことはしなかった。
「貴殿方の、苦渋の決断に、敬意を表する。この降伏を受け入れよう」
カエサルは、その場で、降伏の条件を提示した。
「貴殿らの軍団は、これをもって、完全に解散とする。兵士たちは、望むなら、私の軍に加わることを許可する。望まぬ者は、ヒスパニアの地に、市民として定住するなり、故郷のイタリアへ帰るなり、その進退は、一切自由とする。命も、財産も、私が保証しよう」
その夜、カエサルの天幕を訪れた私、レビルスが見たのは、勝利に沸く陣営の喧騒とは無縁の、冷徹な実務家の姿だった。
彼は、ヒスパニア各地に残るポンペイウス派の残党を掃討するための、具体的な指示書を作成していた。
完璧な勝利に、一瞬たりとも浸ることはない。彼の思考は、常に、次の一手を見据えていた。
「見事な勝利だった、レビルス」
カエサルは、私に気づくと、顔を上げた。
「お前の計算が、七個軍団を、一滴の血も流さずに、盤上から消し去った」
「閣下の『寛容』という、最大の武器があってこそです」
私がそう答えると、カエサルは静かに首を振った。
「だが、ヒスパニアの勝利は、始まりに過ぎん」
カエサルは、机の上の地図を指差した。その指は、ヒスパニアではなく、イタリア半島、そして、ローマを指していた。
「私がローマを不在にして、すでに数ヶ月。レピドゥスたちが、よく都を守ってはいるが、それも限界だろう。私が正統な手続きなくローマを支配している限り、第二、第三のカエリウスが、必ず現れる。私は、ローマの**『正統な支配者』**となる必要がある」
「…独裁官に?」
私の問いに、カエサルは、静かに頷いた。
「そうだ。法務官レピドゥスに民会を召集させ、私を独裁官に指名させる。そして、その権限で、来年の執政官選挙を、私自身が管理する。私が正規の執政官としてギリシャへ渡れば、ポンペイウスは、もはや『ローマの正規軍』ではなく、ただの『反乱軍』となるのだ」
それは、軍事的な勝利と並行して進める、あまりにも大胆な、政治的な布石だった。
「レビルス」
カエサルは、私を真っ直ぐに見据えた。
「この指令を、レピドゥス、アントニウス、そしてオッピウスたちへ送る、密書を作成しろ。事を荒立てず、しかし、絶対に断れない形で、私の意思を、彼らに伝えろ。この政治という、もう一つの戦場でも、お前の計算が必要だ」
「…御意に」
私は、深く頷いた。
ヒスパニアの戦いは、終わった。だが、休む暇もなく、次なる戦いが、すでに始まっていた。
私は、すぐに羊皮紙を手に取ると、ローマに残る者たちを、私の計算通りに動かすための、言葉の方程式を、静かに、組み上げ始めた。
無血の勝利の夜は、次なる戦いの、静かな始まりの夜でもあった。
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