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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第二部:ヒスパニア・西方の戦い

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第十章:寛容と信頼

イレルダの戦場は、奇妙な静けさに包まれていた。


かつてカエサル軍を苦しめたシコリス川は、レビルスが掘削させた分水路によって、飼いならされた獣のようにおとなしくなっていた。


カエサル軍の陣営には、ガリアからの潤沢な補給物資が届き、兵士たちの顔色も、体力も、完全に回復していた。


対照的に、丘の上に築かれたポンペイウス軍の陣営は、今や、沈黙する要塞と化していた。


我々の巧みな機動によって、彼らは完全に包囲され、その補給路は断たれている。


かつて我々が味わった飢えと孤立の恐怖が、今度は、そっくりそのまま、彼らの上に降りかかっていた。


戦況の逆転は、誰の目にも明らかだった。だが、カエサルは、決して総攻撃の命令を下そうとはしなかった。


「まだだ」


彼は、丘の上の敵陣を見つめながら、ただ静かに呟くだけだった。


その日、異変は、二つの陣営の中間に流れる、小さな川で起こった。


喉の渇きに耐えかねたのだろう。


数人のポンペイウス軍の兵士が、武器も持たずに、丘から降りてきたのだ。彼らは、我々の陣営の兵士たちを、怯えと警戒に満ちた目で見つめながら、必死に川の水を飲んでいた。


「…どうしますか、レビルス殿」


私の隣で、ドワーフのボルグが、低い声で尋ねた。


「捕らえますか?」


「いや、何もしなくていい」


私は、静かに首を振った。


「見ているだけでいい」


やがて、我々の陣営からも、一人の兵士が、水差しを手に、川へと近づいていった。


彼は、ポンペイウス軍の兵士たちに、敵意がないことを示すように、ゆっくりとした足取りだった。


そして、驚くべきことに、彼は、自らの水差しを、敵兵の一人に差し出したのだ。


敵兵は、一瞬、毒でも入っているのではないかと疑うように、その水差しと、我々の兵士の顔を、交互に見つめていた。


だが、やがて、渇きが恐怖に打ち勝ったのだろう。彼は、震える手でそれを受け取ると、夢中で水を飲み干した。


その光景を皮切りに、まるで堰を切ったように、兵士たちの交流が始まった。


最初は、一人、また一人と。やがて、それは、数十人、数百人の規模へと膨れ上がっていった。


彼らは、同じローマ市民であり、つい数ヶ月前までは、同じ国で暮らす隣人だったのだ。中には、旧知の戦友さえもいた。


「おい、マルクスじゃないか! 生きていたのか!」


「ガイウス! お前こそ! まさか、こんなところで会うとはな…」


彼らは、互いの無事を喜び、故郷の話をし、そして、この狂った戦争への不満を、ぶつけ合った。


「一体、俺たちは、何のために殺し合わねばならんのだ…」


「司令官どもは、丘の上でふんぞり返っているだけだ。俺たちは、飢えて死ぬのを待つだけさ…」


古参兵のセクンドゥスは、その光景を、腕を組みながら、苦々しい顔で見つめていた。


「…甘いな。これは、敵の罠かもしれん。情報を抜き取るための、奴らの芝居かもしれんぞ」


「それでも、構わない」


私は、セクンドゥスに答えた。


「むしろ、我々の情報を、どんどん与えてやれ。我々の陣営には、食料も、葡萄酒も、潤沢にある、と。そして、カエサル閣下は、降伏する者を、決して罰したりはしない、と」


その時、カエサル本人が、我々の元へやってきた。


彼は、兵士たちが敵味方の区別なく語り合っている光景を、満足げな目で見つめていた。


彼は、全ての百人隊長を集めると、絶対的な命令を下した。


「全軍に告ぐ。丘から降りてくる兵士たちは、もはや敵ではない。彼らは、我らが同胞、ローマ市民である。彼らに、食料と葡萄酒を与えよ。傷ついた者がいれば、手当てをしてやれ。彼らを客人として、丁重にもてなすのだ。そして、伝えよ。カエサルの下では、いかなるローマ人も、恐れることは何もない、と。これは、総司令官としての、絶対の命令である。もし、彼らに危害を加える者がいれば、その者は、この私を傷つけたと同罪と見なし、厳罰に処す!」


カエサルの**「寛容クレメンティア」という名の、心理戦が始まったのだ。


私は、その戦略の正しさを、冷徹に計算していた。


この戦争は、武力だけで決するものではない。兵士一人一人の、心の問題なのだ。


敵の指揮官たちは、恐怖で兵士たちを縛り付け、戦わせることはできる。


だが、彼らが、我々を憎むように、強制することはできない。


我々が、憎悪ではなく、寛容と信頼**で彼らを迎え入れれば、敵の軍団は、その内側から、音を立てて崩壊していく。


兵士たちの心を、我々が奪ってしまえば、アフラニウスとペトレイウスは、もはや、誰一人として、戦場に送り出すことはできなくなる。


これこそが、このヒスパニアの戦いを、最も少ない犠牲で、そして、最も完全に終わらせるための、唯一の解だった。


カエサルの命令は、絶対だった。


我々の兵士たちは、昨日までの敵を、温かく迎え入れた。陣営のあちこちで、酒宴の輪が広がり、笑い声が響き渡った。


その報は、燎原の火のように、丘の上のポンペイウス軍の陣営を駆け巡った。


カエサルは、裏切り者を罰しない。それどころか、腹一杯、食わせてくれるらしい。


その噂は、飢えと絶望に沈んでいた兵士たちの心を、完全に溶かしてしまった。


彼らは、もはや、指揮官の命令を、聞かなくなった。


武器を置き、家族の話をし、そして、どうすれば、カエサル軍に投降できるかということだけを、話し合い始めた。


アフラニウスとペトレイウスは、自軍の陣営の城壁の上から、その光景を、なすすべもなく見つめていた。


彼らが誇った、難攻不落の要塞も、七個軍団の精兵も、もはや、何の意味もなさなかった。


彼らの軍団は、一滴の血も流れることなく、カエサルの「寛容」という、見えざる兵器の前に、完全に、敗北したのだ。


ヒスパニアの戦いは、今、静かに、その幕を閉じようとしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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ウァッロ「まだだ、まだ終わっていない! 勝手に終わらすな!」
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