第九章:逆転
その夜、シコリス川の岸辺は、息を殺した兵士たちの、静かな熱気に満ちていた。
目の前には、依然として濁流が渦巻いている。
だが、兵士たちの瞳には、もはや絶望の色はなかった。
彼らの背後には、この数日間で作り上げられた、数百隻もの奇妙な形をした革製の小舟が、まるで獲物を待つ獣のように、静かに並んでいた。
「…本当に、こんな紙切れみたいな舟で渡れるのかね」
古参兵のセクンドゥスが、泥水に汚れた顎を撫でながら、忌々しげに呟いた。
だが、その声には、いつものような皮肉ではなく、かすかな期待が混じっていた。
作戦の指揮を執るレビルスは、その言葉に答えず、ただ、対岸の暗闇をじっと見つめていた。
彼の頭脳は、最後の計算を終えていた。
風の向き、川の流れの速さ、そして、敵の斥候が巡回する、わずかな隙。全ての変数は、今、この瞬間に、一点へと収束している。
「…行け」
彼の低い、しかし、絶対的な確信に満ちた命令と共に、第一陣の兵士たちが、革の小舟を濁流の中へと押し出した。
小舟は、木の葉のように、激しい流れに弄ばれた。
一瞬、巨大な渦に飲み込まれそうになり、兵士たちの間から悲鳴が上がる。
だが、舟は、その驚異的な軽さとしなやかさで、水の力を巧みに受け流し、決して沈むことはなかった。
数十分という、永遠にも思える時間の後。
対岸から、フクロウの鳴き声が、三度、夜の闇に響いた。
第一陣が、無事、対岸への上陸に成功した合図だった。
その瞬間、カエサル軍の陣営に、声にならない歓声が広がった。
それは、逆転の狼煙だった。
その日を境に、戦場の流れは、完全に変わった。
夜な夜な、革の小舟が、兵士と、そして何よりも渇望されていた食料を、対岸へと運び続けた。
数日後、ガリアからの補給路は、敵陣のはるか後方で、奇跡的に再接続された。
飢えに苦しんでいた兵士たちの元に、小麦粉の袋が届けられた時、陣営のあちこちで、男たちの嗚咽が漏れた。
彼らは、泥水にまみれた手で、ただただ無心に、焼きたての硬いパンを、涙と共に、その腹へと詰め込んだ。
兵士たちの腹が満たされると同時に、彼らの心にも、かつての闘志が戻ってきた。
そして、彼らの目に、信じがたい光景が広がり始める。
レビルスが設計した、巨大な分水路。
数千人の兵士たちが、来る日も来る日も掘り続けたその巨大な溝に、シコリス川の濁流が、まるで吸い込まれるように、流れ込み始めたのだ。
本流の水位は、日に日に、目に見えて下がっていった。
数週間前には、天災としか思えなかった狂乱の川が、今や、人間の「計算」によって、その牙を抜かれ、飼いならされようとしていた。
兵站を回復させ、川を克服したカエサルは、ついに、反撃の牙を剥いた。
それまで防御に徹していた軍団が、まるで檻から放たれた獣のように、一斉に行動を開始したのだ。
ファビウスの軍団が、水位の下がった川を渡り、敵の陣地の側面に回り込む。
カエサル自身が率いる本隊は、正面から、敵を丘の上に釘付けにする。
その動きは、あまりにも速く、そして、あまりにも有機的だった。
対するポンペイウス軍の指揮官、アフラニウスとペトレイウスは、完全に混乱していた。
彼らの目の前で起きていることが、信じられなかった。
数日前まで、飢えて死にかけていたはずの敵が、なぜ、これほどまでに力強く、そして統制の取れた動きができるのか。
自分たちが、難攻不落の要塞と信じていたこの陣地が、今や、自分たちを閉じ込める、巨大な檻へと、姿を変えつつあった。
カエサルとレビルスは、丘の上の司令部から、その光景を見下ろしていた。
「見ろ、レビルス」
カエサルの声には、楽しげな響きがあった。
「お前の革の舟と溝が、ただ兵士の腹を満たしただけではない。あれは、敵の頭脳そのものを、完全に麻痺させた。彼らは、我々が川を渡れないという前提の上で、全ての戦略を組み立てていた。その前提が崩れた今、彼らは、もはや、どう動けばいいのかさえ、分からなくなっている」
「彼らの自信が、彼らを縛る檻となったのです、閣下」
レビルスは、静かに答えた。
「彼らは、自分たちの経験と、この土地の有利さを、過信した。我々が、その常識の外から、駒を動かすとは、計算できなかったのです」
地図の上では、今や、ポンペイウス軍の陣地は、カエサル軍の部隊によって、幾重にも包囲されていた。
かつてカエサル軍を襲った、補給路の断絶と、孤立という絶望が、今度は、そのまま、敵の上に降りかかろうとしていた。
逆転。
それは、単なる戦術的な優位の逆転ではなかった。
絶望的な状況を、人間の知恵と計算が、希望へと反転させる、偉大な逆転劇だった。
レビルスの計算が、再び、現実をねじ伏せた瞬間だった。
ヒスパニアの戦いは、今、最終局面を迎えようとしていた。
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