第八章:計算屋の逆襲
私が「万策尽きた」と告げた時、カエサルの天幕の中は、墓場のような沈黙に包まれた。
カエサルは、何も言わなかった。
私を詰ることも、励ますことさえもしなかった。
ただ、静かに、私の隣に座り、地図の上に散らばる、意味をなさなくなった駒を、共に見つめていた。
その沈黙が、何よりも、私を苛んだ。
それは、私という計算機が、完全に壊れてしまったことを、無言のうちに肯定しているかのようだった。
私の価値は、私の存在意義は、この瞬間に、完全に失われたのだ。
どれほどの時間が、過ぎただろうか。
不意に、カエサルが、静かに口を開いた。
「…レビルス。お前の計算は、常に正しかった」
その言葉は、意外なものだった。
「だが、お前の計算は、常に、我々が知る『ローマの常識』という盤上で行われてきた。橋を架けるのも、陣地を築くのも、全ては、我々が知る工学と、我々が知る戦術学の延長線上にある」
カエサルは、地図を指差した。
「だが、今、我々は、その盤上から、突き落とされた。ならば、どうする?」
彼は、私に、答えを求めているのではなかった。まるで、自分自身に、言い聞かせているかのようだった。
「…新しい盤を、我々自身で、創造するしかない」
その言葉が、私の思考の、固く錆びついていた歯車を、無理やりに動かした。
新しい、盤。
ローマの常識の外にある、何か。
私の脳裏に、まるで天啓のように、一つの光景が蘇った。
それは、数年前、我々が、世界の果てとも思える、ブリタンニアへと遠征した時の記憶。
荒れ狂う海峡を、現地の人々が、奇妙な小舟で、巧みに渡っていた。
それは、ローマの誇る、樫の巨木で作られた軍艦とは、似ても似つかぬ代物だった。
柳の枝を編んで骨組みとし、その上から、動物のなめし革を張り付けただけの、あまりにも原始的で、あまりにも脆そうな、小舟。
当時の私は、それを、蛮族の稚拙な技術と、侮蔑さえしていた。
(…だが)
私の頭脳が、閃光と共に、再起動した。
(…あの舟は、軽かった。そして、我々の重い軍艦が座礁するような、浅瀬でも、自由に動き回っていた。何よりも、あれを作るのに必要な材料は…)
「…木と、革だけだ」
私の口から、無意識に、言葉が漏れた。
「何だと?」
カエサルが、訝しげに私を見た。
私の心臓が、激しく鼓動を始める。絶望という名の分厚い壁に、一筋の光が差し込んだ。
そうだ。私は、間違っていた。
私は、「橋」という、ローマの常識に囚われすぎていた。
我々に必要なのは、対岸に渡るための、恒久的な「道」ではない。
今、この瞬間、この濁流を乗り越えるための、一時的な「手段」なのだ。
「閣下!」
私は、立ち上がると、濡れた地図の上に、新たな羊皮紙を広げ、夢中でスケッチを始めた。
「我々は、橋を架けません。舟を、作るのです。ブリタンニアで見た、あの革製の小舟を、数百隻、いや、千隻以上、今すぐここで建造します。幸い、木材は、この森にいくらでもある。そして、革は…我々が寝床にしている、全ての天幕を、解体して使います!」
そのあまりにも常識外れの発想に、カエサルでさえも、一瞬、言葉を失っていた。
だが、私の思考は、もはや誰にも止められなかった。
一度見えた活路は、次々と、新たな計算と、新たな発想を、私の頭脳にもたらしていく。
「この舟を使い、夜陰に紛れて、兵士を対岸に渡します。そして、敵の背後にある、あの丘を奪取する。そこを拠点に、新たな補給路を、我々自身の手で、確保するのです」
「それだけではありません」
私は、さらに、別の羊皮紙を広げた。
「この川の氾濫が、我々を苦しめているのならば…川の流れそのものを、変えてしまえばいい」
私は、地図の上に、幾本もの線を引いた。
「この地点から、敵の陣地の側面に向かって、複数の巨大な分水路を掘削します。川の水を、こちらに引き込むのです。そうすれば、本流の水位は下がり、我々の行動は、より容易になる。逆に、敵の陣地の側面は、我々が作り出した新たな川によって、守りを固めざるを得なくなる!」
それは、もはや作戦計画というより、神の領域に踏み込むかのような、大地そのものを改造する、壮大な計画だった。
私の説明が終わった時、天幕の中は、再び、沈黙に包まれた。
だが、先ほどの絶望的な沈黙とは、全く違う。それは、あまりにも巨大な発想に対する、畏敬と、そして興奮に満ちた沈黙だった。
やがて、カエサルが、ゆっくりと、笑い始めた。
最初は、静かな笑みだった。
だが、それは、次第に、腹の底から湧き上がるような、大きな哄笑へと変わっていった。
「…は、ははは! そうか、そうだったな! レビルス!」
彼は、私の肩を、力強く叩いた。
「そうだ! 我々は、ローマなのだ! 我々の前に、道がないのならば、道など、我々自身で、作ればよいのだ!」
その日を境に、カエサル軍の陣営の空気は、一変した。
絶望に沈んでいた兵士たちに、新たな、そして、狂気的とも言える仕事が与えられた。
ある者は、森で木を切り出し、舟の骨組みを作る。ある者は、自らの天幕を解体し、なめし革を剥いでいく。
そして、またある者は、泥まみれになりながら、巨大な溝を掘り始めた。
飢えは、まだ続いていた。
だが、兵士たちの瞳には、数日前にはなかった、力強い光が戻っていた。
それは、希望の光だった。
自らの手で、この絶望を打ち破れるかもしれないという、確かな希望の光。
私は、その光景を、丘の上から見下ろしていた。
私の計算は、自然の猛威の前に、一度は、完全に敗北した。
だが、カエサルという男の、常識を打ち破る意志と、そして、仲間たちの、絶望に屈しない力が、私の計算に、新たな変数を、与えてくれた。
(…もう、間違えない)
計算屋の逆襲が、今、始まった。
このヒスパニアの大地そのものを、盤上として、私は、現実を、再びねじ伏せてみせる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




