第七章:絶望的な兵站
イレルダでの対陣が始まってから、数日が過ぎた。
戦線は、奇妙な膠着状態にあった。
我々は、アフラニウスとペトレイウスが率いる、兵力で勝る敵を前に、丘の上に陣を構え、ひたすら耐え続けている。
私の立案した通り、散発的な小競り合いを仕掛け、敵の補給路を脅かすことで、彼らの焦りを誘う。それが、この圧倒的に不利な戦況を覆す、唯一の道だと信じていたからだ。
私の計算は、今回もまた、正しく機能しているはずだった。
兵士たちの食料の消費量、武器の損耗率、そして敵将たちの心理的ストレス値。
その全てが、私の頭脳の中では、勝利という一点に向かって、ゆっくりと、しかし確実に収束し始めていた。
その日までは。
異変は、夜半に訪れた。
最初は、遠雷のような、低い地鳴りだった。警戒して天幕の外に出た私が見たのは、ピレネーの山々から、まるで巨大な蛇のように、こちらに向かって押し寄せてくる、濁流の壁だった。
春の雪解け水。ピレネーの高峰に降り積もった、膨大な量の雪が、この数日の暖かさで、一斉に牙を剥いたのだ。
「…馬鹿な」
私の口から漏れたのは、そんな、あまりにも陳腐な言葉だった。
次の瞬間、轟音と共に、濁流が我々の陣営を襲った。
それは、もはや川の氾濫などという、生易しいものではなかった。
大地そのものが、我々を飲み込もうとしているかのような、抗いようのない、絶対的な暴力。
天幕は紙切れのように引き裂かれ、積み上げられた武具も、食料の袋も、そして、なすすべもなく立ち尽くす兵士たちでさえもが、あっという間に濁流の中へと消えていく。
夜が明け、水が引いた後に現れたのは、もはや陣営とは呼べない、泥と瓦礫の海だった。
そして、私に、真の絶望を突きつけたのは、シコリス川の対岸から戻ってきた、斥候シルウァヌスの報告だった。
「レビルス殿…橋が、二本とも、跡形もなく消え去りました」
その一言で、私の頭脳は、一度凍り付いた。
だが、すぐに、絶望に支配されることを拒絶し、猛烈な速度で再起動を始める。
(落ち着け。計算しろ。最悪の事態は、常に想定してきたはずだ)
私は自室の天幕に駆け込むと、濡れて泥にまみれた地図を広げた。
まず、第一の選択肢:このまま敵陣に攻め込む。
私は、残存兵力、残存食料、そして兵士たちの士気を、変数として方程式に代入していく。だが、導き出された答えは、あまりにも明白だった。
(…駄目だ。食料は、もって三日。兵士たちは、昨夜の惨事で心身ともに疲弊しきっている。この状態で、丘の上の、万全の態勢で待ち構える七個軍団に突撃をかければ、勝率は、ゼロだ。それは作戦ではなく、ただの集団自殺に過ぎない)
私は、その選択肢を、思考の中から消去した。
次に、第二の選択肢:橋を架け直す。
私は、近くの森林から確保できる資材の量、橋を架けるために必要な工兵の数、そして、この狂ったように増水した川の流れの速さを計算する。
(…これも、不可能だ)
結論は、すぐに出た。橋を架けるための巨大な木材は、その大半が流された。
川の流れは、熟練の工兵でさえも近づけないほどに、速く、そして冷たい。
そして何より、もし我々が架橋作業を始めれば、対岸の敵が、それを黙って見ているはずがない。投石機の一斉掃射を浴びて、作業は一日と持たないだろう。
私は、その選択肢も、消去した。
ならば、第三の選択肢:それ以外の活路。
私は、地図の上で、視点を大きく広げた。このイレルダという一点から、ヒスパニア全土へ、そしてガリアへ。
(海へ出るか? いや、最も近い海岸線まで、数百キロ。飢えた兵士たちを率いての踏破は不可能だ)
(敵陣の背後に、回り込むことは? 敵は、我々をこの場所に釘付けにしたまま、分隊を派遣して、我々の退路を完全に遮断するだろう)
一つ、また一つと、可能性を計算し、そして、それが実行不可能であることを、自らの頭脳で証明していく。
それは、希望の光を求めて、無数の扉を開けては、その先にあるのが、ただの分厚い壁であることを、繰り返し確認させられるような、拷問に近い作業だった。
そして、ついに、私の頭脳は、開けるべき最後の扉の前で、完全に停止した。
全ての変数を試し、全ての可能性を計算し尽くした。
だが、どの扉の先にも、道はなかった。
(…これが、絶望か)
私は、生まれて初めて、その感情の意味を、理解した。
それは、恐怖でも、怒りでもない。ただ、思考が、真っ白な壁にぶつかり、それ以上、一歩も前に進めなくなる感覚。
私が、唯一の武器として信じてきた「計算」が、自然という、あまりにも巨大で、あまりにも不条理な力の前に、完全に無力化されるという、絶対的な敗北感。
その時、天幕の入り口が、静かに開けられた。カエサルだった。
彼の顔にも、疲労の色は濃かった。だが、その瞳だけは、まだ、死んではいなかった。
「…レビルス。何か、策はないか」
その声は、かすれていた。だが、その声には、まだ、私への信頼が、わずかに残っていた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、私の生涯で、初めて、主に、こう告げた。
「…申し訳、ありません。閣下。私の計算では…もはや、万策、尽きました」
その言葉が、私自身の口から発せられた瞬間、私の心の中で、何かが、音を立てて、砕け散った。
計算の天才と呼ばれた男の、最初の、そして、おそらくは最後の、完全な敗北だった。
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