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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第二部:ヒスパニア・西方の戦い

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第六章:ヒスパニアの敵

ピレネーの山々は、まるで巨大な獣の背骨のように、天と地の間を分かっていた。


カエサル軍は、その険しい隘路を、黙々と越えていた。


ガリアの緑豊かな大地とも、イタリアの温暖な気候とも違う。乾いた風が吹き荒れ、むき出しの岩肌が、兵士たちの疲れた体を容赦なく削っていく。


「…おい、嘘だろう」


古参兵のセクンドゥスが、眼下に広がる荒涼とした大地を見下ろし、乾いた喉で悪態をついた。


「地図の上では、ただの線一本だったが…これほどの難所だったとはな。ポンペイウスの奴ら、こんな地の果てまで、よく軍団を置きに来たもんだ」


彼の言葉に、誰もが同意せざるを得なかった。


ローマからマッシリア、そしてこのピレネー越え。


休みなく続いた強行軍は、歴戦の兵士たちの体力さえも、確実に奪っていた。若き旗手のルキウスでさえ、その顔は土埃にまみれ、唇は乾ききっている。


だが、彼らの先頭を歩く二人の男、カエサルとレビルスは、一切の疲労を見せなかった。


カエサルは、この新たな戦場の空気を、まるで故郷に帰ってきたかのように、深く吸い込んでいる。


そしてレビルスは、その冷徹な目で、絶えず周囲の地形を測量し、頭の中の地図と照合し続けていた。


やがて、彼らがヒスパニアの大地に完全に足を踏み入れた時、エルフの斥候シルウァヌスが、風のように現れ、レビルスの前にひざまずいた。


「レビルス殿。敵軍の配置、確認しました」


シルウァヌスの報告は、カエサルの天幕で、副官であるファビウスも交えて行われた。


「敵軍は、イレルダの町を拠点とし、シコリス川とシンカ川の間に、巨大な陣地を構築しています。兵力は、七個軍団。その全てが、長年この地で訓練を積んだ、歴戦の精鋭です」


シルウァヌスが広げた地図の上には、敵の陣地が、まるで鉄壁の要塞のように描かれていた。


「そして、敵の指揮官は二人」


彼は、続けた。


「ルキウス・アフラニウスと、マルクス・ペトレイウス。いずれも、長年ポンペイウスの麾下として、このヒスパニアを統治してきた、経験豊富な将軍です」


「…アフラニウスと、ペトレイウスか」


名門貴族のファビウスが、その名を、苦々しげに繰り返した。


「厄介な相手ですな、閣下。アフラニウスは、慎重で、決して隙を見せない。ペトレイウスは、猪武者だが、兵士たちの忠誠心は、極めて厚い。そして何より、彼らはこの土地の全てを知り尽くしている。川の流れ、天候の変化、そして、食料を徴収できる村々の場所まで」


それは、これまでの戦いとは、全く質の異なる敵だった。


イタリアの諸都市は、戦意が低く、指導者も不在だった。


だが、このヒスパニアには、地の利を完全に掌握し、兵力でもカエサル軍を上回る、強大な敵が待ち構えているのだ。


天幕の中は、重い沈黙に包まれた。マッシリアでの足止めによって、兵士たちの疲労は蓄積している。


ガリアからの補給路は、あまりにも遠く、そして細い。


状況は、客観的に見れば、カエサル軍にとって、圧倒的に不利だった。


「…面白い」


その沈黙を破ったのは、カエサルだった。


だが、その声に、いつものような余裕はない。むしろ、自らを奮い立たせるような、強い意志が込められていた。


「ようやく、骨のある敵に会えたというわけか。退屈せずに済みそうだ」


彼のその言葉は、天幕の中の重苦しい空気を、無理やり断ち切るかのようだった。


カエサルは、レビルスに向き直った。


「どう見る、レビルス? お前の計算では、どう戦うべきだと出た?」


その問いに、レビルスは、静かに答えた。


その目は、恐怖も、不安も、一切映していなかった。


ただ、目の前の複雑な問題を、ありのままに分析する、数学者の目をしていた。


「…閣下。この戦いは、極めて困難なものになります。兵力、地の利、補給線の安定性、そのいずれにおいても、我々は敵に劣っている。これは、認めざるを得ない事実です」


そのあまりにも率直な分析に、ファビウスが息を呑んだ。


だが、レビルスは、続けた。


「故に、我々が取るべき道は、一つしかありません。敵の土俵で、力と力のぶつかり合いを挑むのは、愚策です。我々は、敵が想定していない場所で、彼らが想定していない戦いを、仕掛け続ける必要がある」


レビルスは、地図の上を指し示した。


「敵の陣地は、確かに強固です。ですが、その強固さゆえに、彼らは動けない。我々はその機動力を最大限に活かし、彼らの補給路を脅かし、小競り合いを繰り返し、彼らを苛立たせ、焦らせ、そして、彼らが致命的なミスを犯すのを、待つのです」


それは、勝利を約束する華々しい戦略ではなかった。


むしろ、圧倒的な不利を、小さな工夫と忍耐で、少しずつ覆していくという、どこまでも地味で、そして困難な道筋だった。


「…よかろう」


カエサルは、重々しく頷いた。


「お前の計算が、それを示しているのならば、私はそれに従うまでだ。我々は、この地で、狼ではなく、蛇のように戦う」


カエサルのその一言で、ヒスパニアでの戦いの、最初の方針が決まった。


数日後、カエサル軍は、イレルダの町を挟んで、アフラニウスとペトレイウスの軍団と、ついに対峙した。


敵の陣地は、レビルスの報告通り、川を背にした丘の上に築かれた、難攻不落の要塞だった。


ヒスパニアの乾いた風が、二つの軍団の間を、静かに吹き抜けていく。


西方の戦いの火蓋が、今、切って落とされようとしていた。

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