第五章:若き獅子の見た、英雄と兄の影
若きマルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、親友と共に、フォルム・ロマヌムを埋め尽くす群衆の中にいた。
彼らの目的はただ一つ。
イタリア半島をわずか二ヶ月で平定し、今、初めて公式にローマへと入城する、ガイウス・ユリウス・カエサルの姿を一目見ることだった。
群衆は、熱狂と不安という、二つの相反する感情の波に揺れていた。
「…カエサル様が、我らを救ってくださる! ポンペイウスと元老院は、我々を見捨てて逃げたのだ!」
「馬鹿を言え! あれは独裁者になる気だ! スッラの再来だぞ、今に恐ろしい粛清が始まる…」
希望と恐怖が、人々の間でさざ波のように広がっていく。アグリッパは、その渦の中心で、隣に立つ親友の横顔を気遣った。
ガイウス・オクタウィアヌス。カエサルの大甥にあたる十四歳の少年。
その病弱な体は、群衆の熱気に当てられ、すでにその白い顔に疲労の色を浮かべていた。だが、彼の瞳だけが、異常なほどの輝きを放ち、カエサルが現れるであろう道の一点を、じっと見つめていた。
やがて、歓声とも悲鳴ともつかぬ声が上がり、群衆が大きくどよめいた。カエサルが、姿を現したのだ。
彼は、金銀で飾られた凱旋式の馬車に乗ってはいなかった。
派手な軍装をまとうこともなく、ただ一人の政務官として、簡素なトーガを身につけ、護衛の者を数人だけ伴い、静かにフォルムへと入ってきた。
だが、その姿は、どんな軍団を率いるよりも、雄弁に彼の力を物語っていた。
彼の周囲だけ、空気が違う。ローマという都市そのものが、彼一人の存在にひれ伏しているかのような、圧倒的なDignitas(尊厳)。
アグリッパの隣で、オクタウィアヌスが、息を呑んだ。
その目は、憧憬と、そして畏敬の念に、爛々と輝いていた。
「…見ろ、アグリッパ」
オクタウィアヌスの声は、興奮に震えていた。
「あれが、本物の支配者だ。武力で威嚇するのでも、甘言で媚を売るのでもない。ただ、そこにいるだけで、人の心を掴んで離さない。彼こそが、この混乱したローマを救える、唯一の人物だ」
アグリッパは、その言葉に、黙って頷くことしかできなかった。
オクタウィアヌスの言う通りだった。カエサルという男は、もはや一人の人間ではなく、ローマの運命そのものを体現する、巨大な存在と化していた。
そして、オクタウィアヌスが、その偉大な大叔父の後を継ぐべき存在になろうとしていることを、アグリッパは、この瞬間に、はっきりと感じ取っていた。
彼の親友の心に、カエサルの後継者となるべきだという、最初の野心の火が灯ったのを、隣で確かに見たのだ。
だが、その一方で、アグリッパの心は、重く暗い影に覆われていた。
彼の脳裏に、数日前に届いた、一通の手紙の文面が蘇る。
差出人は、彼が敬愛してやまない、実の兄、ルキウス・ウィプサニウス・アグリッパだった。
兄は、アグリッパとは違い、古き良き共和政の伝統を重んじる、頑固なまでの保守派だった。
カエサルの行動を、共和国の自由を脅かす、許されざる暴挙と見なし、ポンペイウスと共に、ギリシャへと渡っていたのだ。
手紙には、こう綴られていた。
『…マルクスよ。お前が、カエサルの大甥と親しくしていることは知っている。だが、友情と、国家への忠誠は、別物だ。私は、我々の父祖が築き上げた、この偉大な共和国を守るため、最後まで剣を取る。お前も、己が信じる道を見誤るな…』
アグリッパは、群衆の中で、二つの光景を同時に見ていた。
一つは、親友オクタウィアヌスが、憧れの眼差しで見つめる、英雄カエサルの姿。
そしてもう一つは、その英雄を討つために、遠いギリシャの地で、剣を研いでいるであろう、実の兄の姿。
(…いずれ、二人は、戦場で出会うことになる)
親友が心酔する英雄と、血を分けた実の兄が、互いの正義を賭けて、殺し合う。
その時、自分は、一体どちらの側に立てばいいのか。
アグリッパは、この内乱がもたらす本当の悲劇を、誰にも言えない、個人的な痛みとして、静かに噛みしめていた。
それは、国家や正義といった、大きな物語ではない。
家族が引き裂かれ、友が友を討つという、あまりにもありふれた、そして、あまりにも残酷な悲しみだった。
フォルムに響き渡るカエサルへの歓声も、オクタウィアヌスの興奮した声も、もはや、アグリッパの耳には届いていなかった。
彼はただ、これから始まるであろう、逃れようのない悲劇の重さに、一人、耐えていた。
若き獅子の心は、英雄の光と、兄の影との間で、深く引き裂かれていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




