第二章:将軍たちの評定
カエサルのローマ入城から数日後、首都には、ガリアでの八年間の死闘を戦い抜いた、歴戦の指揮官たちが続々と集結し始めていた。
その中には、すでにローマの治安維持の任についていた腹心、マルクス・アントニウスの姿もあった。
彼の存在は、首都に残る元老院議員たちを牽制し、カエサルの権威を盤石にする上で、不可欠な重しとなっていた。
カエサルは、彼らをフォルムに隣接する公会堂の一室に集め、最高軍事評定を開いた。
部屋には、アントニウス、攻城戦の専門家ガイウス・トレボニウス、名門貴族のクィントゥス・ファビウス・マクシムス、そして艦隊司令官のデキムス・ブルトゥスといった最高幹部が顔を揃えている。
ガリアから合流したプランクスやセクスティウスといった将軍たちも、緊張した面持ちで席に着いていた。
部屋の中央には、イタリア半島だけでなく、ヒスパニア、ギリシャ、アフリカ、そして東方属州までを含む、地中海世界全図が広げられている。
この内乱が、もはやローマという一都市の問題ではなく、世界の覇権を賭けた大戦であることを、その地図は雄弁に物語っていた。
「皆、よく集まってくれた」
カエサルの静かな一言で、歴戦の猛者たちの私語が、ぴたりと止んだ。
「イタリア半島は、我々の手にある。だが、戦いはまだ始まったばかりだ。ポンペイウスは、今この瞬間も、ギリシャで東方の王たちから兵と金を集め、我々を打ち破るための大軍団を編成している」
「ならば、ぐずぐずしている暇はありません!」
アントニウスが、その激情的な性格を隠しもせずに声を上げた。
「艦隊を編成し、一刻も早くギリシャへ渡るべきです。奴の準備が整う前に!」
その意見は、この場にいる多くの将軍たちの心を代弁するものだった。
「いや」
カエサルは、静かに首を振った。
そして、地図の上で、イタリア半島のはるか西方、ヒスパニアを指し示した。
「我々が真に最初に叩くべきは、ここだ」
その言葉に、将軍たちは息を呑んだ。
アントニウスでさえ、信じられないという表情でカエサルを見つめている。
敵の本隊を放置して、全く逆の方向へ向かうというのか。
カエサルは、彼らの困惑を見透かしたように、続けた。
「ポンペイウスは、確かにギリシャにいる。だが、彼の力の源泉、そして我々にとって最大の脅威は、このヒスパニアに眠っている。そこには、ポンペイウスが長年かけて育て上げた、七個軍団という、彼の最も精強な私兵団がいるのだ。もし我々がギリシャへ向かえば、背後に残したこのヒスパニア軍団が、必ずや我々の背後を突く。我々は、二つの戦線を同時に相手にすることになる」
カエサルは、全ての将軍たちを見渡した。
「私は、ポンペイウスを追うのではない。彼の帝国を、根元から解体するのだ。まず、彼の最強の腕であるヒスパニアを叩き折り、次に、彼の心臓であるギリシャを貫く。そのための、全体戦略を、今から伝える」
それは、あまりにも壮大で、そして危険な構想だった。
地中海世界の東西で、同時に戦争を遂行するという、神の視点を持つ者だけが描ける戦略。
将軍たちは、その発想の大きさに、ただ圧倒されていた。
カエサルは、隣に控えるレビルスに、目配せをした。
「この構想を、現実の作戦へと落とし込んだのが、我が副将、レビルスだ。彼から、具体的な任務を伝えてもらう」
レビルスは、一歩前に進み出た。
彼の声は、カエサルのカリスマに満ちた演説とは対照的に、どこまでも無機質で、冷徹だった。
「これより、各軍団の任務を通達する。全ては、ヒスパニア平定を、最短期間で完了させるための計算に基づいている」
彼は、地図を指し示しながら、淀みなく語り始めた。
「まず、首都ローマを含むイタリア本土の統治は、法務官レピドゥス殿と、護民官アントニウス殿に一任する。我々が不在の間、首都の安定を維持することが、貴殿方の最重要任務となる」
「次に、イタリア各地の治安維持と、将来への備え。プランクス、貴官はアドリア海沿岸の港を確保。セクスティウス、貴官はカプア周辺で新兵を徴募・訓練せよ。そして、デキムス、貴官は、来るべきギリシャ遠征に備え、アドリア海沿岸で輸送船団の編成準備を開始せよ。これは長期的な任務となる」
「そして、最重要作戦である、ヒスパニア遠征軍。これは、カエサル閣下と私が本隊を率いる。ファビウス副官、貴官の軍団も、これに加わる。なお、ギリシャ攻略の具体的な計画は、このヒスパニアでの戦いの結果を見極めた上で、改めて策定する」
それは、もはや作戦計画というより、精密な機械の設計図だった。
誰が、いつ、どこで、何をすべきか。
その全てが、完璧な計算によって導き出され、一つの巨大な目的のために、有機的に連動している。
将軍たちは、当初抱いていた疑問や不安が、レビルスの冷徹な数字の前に、跡形もなく消え去っていくのを感じていた。
「…承知した」
名門貴族のファビウスが、その落ち着いた声で、深い感嘆の息と共に言った。
「これほどの計画を前にして、異を唱えることなど、誰にもできまい」
彼の言葉に、全ての将軍たちが、力強く頷いた。
評定が終わると、将軍たちは、新たな任務を与えられたそれぞれの持ち場へと、足早に去っていった。
一つの巨大な機械が、今、動き始めたのだ。
誰もいなくなった部屋で、カエサルは、レビルスと共に、再び地中海全図を見下ろしていた。
「…見事なものだった、レビルス」
カエサルは、戦場で見せる顔とは違う、穏やかな声で言った。
「ローマに戻ってからの、お前の仕事ぶりは、まさに神業の域だ。国庫の金を元にした、あの国家財政戦略。あれがなければ、我々は今頃、ローマ市民と兵士たちの、際限のない要求に押し潰されていただろう。そして、今の多方面作戦計画。あれが、我々の勝利を確実なものにする」
「私の計算は、閣下の決断があって初めて意味を成します」
レビルスは、静かに答えた。
「その決断を、私は下し続けねばならん」
カエサルの声に、深い疲労と、そして鋼のような決意が滲んだ。
「この内乱で、これ以上ローマ人の血を流させるわけにはいかない。同胞が同胞を殺す、この狂った戦争を、私は一刻も早く終わらせる。そのためならば、いかなる非情な決断も下すつもりだ」
それは、この内乱を始めた男の、偽らざる本心だった。
彼は、破壊者であると同時に、誰よりもこの国の未来を憂う、救済者でもあろうとしていた。
カエサルは、ふと、からかうような笑みを浮かべた。
「それに、だ。この戦争が早く終われば、お前が望む、静かな生活も手に入るだろう? 後方でのんびりと、数字だけを相手に暮らしたいのだろう?」
その言葉に、レビルスは、初めてかすかな笑みを返した。
「…そのためならば、閣下。私は、いかなる計算もしてみせましょう」
二人の天才の間には、言葉を超えた、深い信頼と共感が流れていた。
彼らは、それぞれのやり方で、この狂った時代を終わらせようとしていた。
カエサルとレビルスは、新たな戦場へと向かうべく、部屋を後にした。
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