第一章:首都ローマ
カエサルがローマに入城してから、数日が過ぎた。
だが、レビルスにとって、その数日間は、戦場の狂乱よりも遥かに消耗の激しい時間だった。
彼の仮の司令部となったパラティヌスの丘の屋敷には、ひっきりなしに人の波が押し寄せていた。
カエサルに許しを乞う元老院議員、新たな権力者に媚びを売ろうとする商人、そして、この内乱で財産を失い、救済を求める市民たち。人間の欲望と不安が、熱病のように都に蔓延していた。
レビルスは、その全てを無視し、部屋に閉じこもっていた。
彼の仲間たちが、屋敷の入り口で、屈強な門番として、あらゆる訪問者を追い返していた。
「副将は多忙である! アポイントメントは後日!」
ボルグの野太い声と、セクンドゥスの皮肉に満ちた追い払いの文句が、時折部屋の中にまで聞こえてきた。
その日、レビルスの部屋を訪れたのは、仲間たちの制止を唯一受けることのない、二人の男だった。
カエサルの影の実務家、ガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス-・バルブス。
「…レビルス殿、報告と、そして相談がある」
部屋に入るなり、オッピウスが、その感情の読めない静かな声で切り出した。
「我々が、カエサル閣下のご命令通りに進めてきた経済戦争についてだ」
「聞こう」
レビルスは、ヒスパニアの地図から目を離さずに答えた。
「結果から言えば、これまでのところは、完璧な成功だ」
今度は、資産家であるバルブスが、数字を挙げながら報告を始めた。
「当初の計画通り、カエサル閣下のガリアからの莫大な富を市中に段階的に放出し、市民への現金給付や、無料の穀物配給の拡充を行った。結果、市民の支持は、完全に我々へと傾いている。ポンペイウス派がローマを見捨てたという失望感も相まって、今やカエサル閣下を救世主と見なす風潮さえ生まれている」
「結構なことだ。何が問題なのだ?」
「問題は二つある」
とオッピウスが引き継いだ。
「一つは、今後の戦費だ。バルブスが試算した、これから始まるヒスパニア、ギリシャ、アフリカでの戦いにかかる総費用は、我々の想像を遥かに超えていた。カエサル閣下の個人資産は莫大だが、それとて無限ではない。今のペースで市民への『ばらまき』を続ければ、内乱の半ばで、我々の金庫は底をつく可能性がある」
「そして、もう一つの問題は、より根が深い」
バルブスが、苦々しい顔で言葉を続けた。
「金とパンを与えすぎた結果、市民の一部は、それを当然の権利と勘違いし始めている。労働意欲は低下し、我々への要求は日に日にエスカレートしている。兵士たちも同じだ。ローマでの気前の良い話を聞きつけ、さらなる給金の上乗せを期待する声が、すでに陣営内で囁かれ始めている。我々は、金で忠誠心を買っているが、それは同時に、決して満たされることのない、貪欲な獣を育てているようなものなのだ」
それは、カエサルが直面する、もう一つの戦争の、予期せぬ副作用だった。
短期的な人心掌握には成功したが、その代償として、国家の財政と倫理観を、静かに蝕み始めていたのだ。
オッピウスとバルブスは、その危険な兆候を誰よりも早く察知し、レビルスの計算能力に助けを求めに来たのだった。
「…なるほどな」
レビルスは、初めて地図から顔を上げると、二人に向き直った。
「つまり、これまでの戦術的な資金投下から、国家全体の富を管理する、長期的な戦略へと移行する必要がある、ということか」
彼は立ち上がると、部屋の隅から、一枚の巨大な黒板を運び出してきた。
そこには、チョークで無数の数式が書き込まれていた。
「バルブス、まず必要な数字をくれ。ヒスパニア遠征の総費用、ギリシャでの決戦を想定した場合の追加費用、そしてアフリカを平定するまでの、最大の見積もり額を」
「オッピウス、市民と兵士、双方の不満を抑えつつ、彼らの忠誠心を維持するために必要な、最低限の支出額はいくらだ? これまでの実績から、支持率と支出額の相関関係を計算し、費用対効果が最大になるポイントを導き出す」
「それから、レピドゥス殿が維持しようとしている、国家の公式な行政予算。アントニウス殿が要求してくるであろう、軍団の維持費。そして、新たに接収した国庫の資産。それら全てを、変数として、この方程式に組み込む…」
レビルスは、まるで神がかりのように、凄まじい速度で問いを発し、黒板の上に数字と数式を書き連ねていく。
オッピウスとバルブスは、その姿に、ただ圧倒されていた。
彼らが漠然とした懸念としてしか捉えられていなかった問題が、この男の頭脳の中では、明確な数字と論理によって、瞬時に分析され、再構築されていく。
数時間後。黒板は、もはや余白がないほど、数字と文字で埋め尽くされていた。
「…以上だ」
レビルスは、チョークを置くと、静かに告げた。
「これが、この内乱が終結するまでの、我々の国家財政戦略だ。市民への給付は、無償の『施し』から、公共事業による『雇用』へと段階的に移行させ、労働意欲を維持する。兵士への恩賞は、現金だけでなく、戦後の分配地を約束することで、期待感を維持しつつ、現在の支出を抑制する。そして、国庫の金は、この長期計画の『予備費』として凍結。決して、目先の人気取りのために費消してはならない。この計画の実行と管理は、到着次第、アントニウス殿とレピドゥス殿に引き継いでもらう」
それは、もはや予算案というより、国家の未来そのものを描いた、完璧な設計図だった。
「…信じられん」
ローマ最高の資産家の一人であるバルブスが、呆然と呟いた。
「カエサル閣下は、一体、どれほどの怪物を、その懐に隠しておられたのだ…」
オッピウスとバルブスが、完璧な答えを得て満足げに退出した後、レビルスは再び、一人部屋に残った。
彼は、自分が作り上げた国家財政の設計図には、もはや一瞥もくれなかった。彼の視線は、再び、部屋の中央に広げられた、ヒスパニアの地図へと戻っていた。
ローマの喧騒も、金の流れも、彼にとっては、このヒスパニア遠征を成功させるための、布石に過ぎない。
彼の頭脳は、すでに、次なる戦場で解くべき、新たな方程式の計算を始めていた。
金と数字の戦争は、彼の計算によって、もはやその手を離れた。
次は、鉄と血の戦争が、彼を待っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!




