エピローグ
ブルンディシウムでポンペイウスを取り逃がした後、カエサルは、ついにローマへと入城した。
それは、凱旋とは、全く無縁のものだった。ガリアでの偉大な勝利を祝う華やかなパレードはなく、市民の熱狂的な歓声もない。
主を失った都は、ただ静かに、そして用心深く、新たな支配者となるかもしれない男の到着を見守っていた。
レビルスは、カエサルに付き従い、彼の仲間たちと共に、カピトリヌスの丘へと続く道をゆっくりと進んでいた。
八年以上も離れていた故郷。
その景色は、彼の記憶にあるものと何も変わらなかった。
白亜の神殿、荘厳なフォルム、そして道端にたたずむ市民たちの、不安と好奇が入り混じった瞳。
「…ここが、ローマか」
若き旗手、ルキウスが、感極まったように呟いた。彼の瞳には、共和国の栄光の中心に足を踏み入れたことへの、純粋な感動が浮かんでいた。
「思ったより、ごちゃごちゃした場所だな」
古参兵のセクンドゥスが、相変わらずの皮肉を口にする。
「これだけの人間がひしめき合っていりゃ、病の一つや二つ、すぐに流行りそうだ」
ドワーフのボルグは、黙って周囲の石造りの建物を鑑定するように見つめ、獣人のガレウスは、人の多さに落ち着かない様子で喉を鳴らしていた。
レビルスは、仲間たちのそんな様子を気にするでもなく、ただ前だけを見つめていた。
彼の目には、ローマの壮麗な景色も、市民たちの視線も、映ってはいなかった。
彼の頭脳は、すでにこのイタリア半島を離れ、次なる戦場へと飛んでいた。
彼らが与えられた仮の司令部は、パラティヌスの丘に立つ、ある貴族の屋敷だった。そこからは、ローマの政治と経済の中心であるフォルム・ロマヌムを一望することができた。
仲間たちが、久しぶりの休息と豪華な食事に英気を養う中、レビルスは一人、屋敷の一室に閉じこもっていた。
部屋の中央には、イタリアの地図に代わって、一枚の巨大な地図が広げられている。
ヒスパニア(現在のスペイン)。
ポンペイウスが、その広大な土地に、七個軍団という強大な兵力を温存している、ローマのもう一つの穀倉地帯。
(…イタリア電撃戦は、終わった)
レビルスは、これまでの戦いを冷静に分析していた。
(我々は、約二ヶ月という、史上あり得ない速さで、イタリア半島を完全に制圧した。犠牲は、ほとんどない。カエサル閣下の『寛容』戦略は、完璧に機能した)
だが、と彼は思考を続ける。
(最大の目標であった、ポンペイウス本人の身柄確保には、失敗した。彼は今、ギリシャで東方属州の強大な軍事力と経済力を背景に、態勢を立て直している。いずれ、我々は彼と決戦の時を迎えねばならない)
その決戦の前に、絶対に叩き潰しておかねばならない脅威。
それが、このヒスパニアのポンペイウス軍団だった。彼らを放置したままギリシャへ向かえば、カエサルは、ポンペイウスと、ヒスパニア軍団とに、挟み撃ちにされることになる。
それは、レビルスの計算上、最も避けねばならない最悪のシナリオだった。
窓の外から、ローマの喧騒が聞こえてくる。カエサルと元老院議員たちの、駆け引きに満ちた会談。
市民たちの、新たな支配者に対する期待と不安。政治という、人間たちの感情と欲望が渦巻く、混沌とした世界。
だが、レビルスの耳に、その騒音は届いていなかった。
彼の頭脳は、ヒスパニアの地形、そこに駐留する七個軍団の配置、指揮官であるアフラニウスとペトレイウスの性格、そして、現地の諸部族の動向といった、膨大なデータを吸収し、新たな方程式を組み上げ始めていた。
ギリシャでポンペイウスが再起するよりも早く、ヒスパニアの軍団を、いかにして無力化するか。
「…レビルス殿」
静かな声に、レビルスは顔を上げた。いつの間にか、エルフの斥候、シルウァヌスが、音もなく部屋に入り、彼のそばに立っていた。
「カエサル閣下より、伝言です。『近々、ヒスパニアへ向けて出発する。準備を整えよ』、と」
「…承知した」
レビルスは、短く応じた。
その返事に、一切の驚きはなかった。彼の計算は、すでにカエサルの決断を、寸分の狂いもなく予測していたのだから。
シルウァヌスが退出した後、レビルスは、再びヒスパニアの地図へと視線を落とした。
彼は、羽ペンを手に取ると、地図の上の、ある一点に、小さな印をつけた。
ピレネー山脈の麓に位置する、小さな町。
イルルダ。
彼の頭脳が導き出した、次なる戦いの、最初の舞台だった。
イタリアを巡る内乱の第一幕は、終わった。
そして今、地中海世界全土を巻き込む、本当の戦争の幕が、静かに上がろうとしていた。
ローマの喧騒を背に、計算の天才は、すでに、次なる戦場での計算を始めていた。
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