第十二章:一瞬の隙
ブルンディシウムの港を見下ろす、城壁の一角。
グナエウス・ポンペイウスは、その場に立ち尽くしていた。
眼下では、カエサル軍の兵士たちが、昼夜を問わず働き続け、港の入り口を塞ぐ巨大な堤防を、恐るべき速度で伸長させている。
あと数日で、この港は完全に封鎖されるだろう。
「…怪物め」
ポンペイウスの口から、偽らざる賞賛と、そして憎悪が入り混じった呟きが漏れた。海を塞ぐ。
常人には思いもよらない、神話的な発想。それを、冷徹な計算と圧倒的な組織力で、現実に作り上げてしまう男。それが、かつての盟友、ガイウス・ユリウス・カエサルだった。
「マグヌス(偉大なる者)。ご決断を」
背後から、静かだが、鋼のように鋭い声がした。ティトゥス・ラビエヌス。カエサルを知り尽くした、元最高の副官。
「堤防は、明日には完成します。我々に残された時間は、今夜しかありません」
ポンペイウスは、ゆっくりと振り返った。
彼の周囲には、ローマから逃れてきた元老院議員たちが、不安げな表情で彼を見つめている。
彼らは、口を開けばカエサルへの罵詈雑言を並べ立てるが、具体的な打開策は何一つ提示できない。
この国を守るという重責は、全て、ポンペイウス一人の双肩にかかっていた。
(…私が、ローマそのものなのだ)
彼は、自らにそう言い聞かせた。
自分と、自分に従う元老院こそが、正統なローマ共和国なのだ、と。
イタリアを一時的に放棄することは、敗北ではない。東方属州の強大な軍団と合流し、正義の鉄槌を下すための、戦略的転進なのだ。
「…全軍に通達せよ」
ポンペイウスは、決然とした声で命じた。
「今夜、我々はブルンディシウムを脱出する」
その夜、ブルンディシウムの街は、水面下で、巨大な機械のように動き始めた。
ポンペイウスの立てた作戦は、単純にして、そして極めて巧妙だった。
まず、市街地の主要な通りという通りに、バリケードが築かれていく。
家具、荷馬車、瓦礫。あらゆるものが、カエサル軍の突入を阻むための障害物へと姿を変えた。道の一部には、巧みに偽装された落とし穴さえも掘られた。
一方で、港では、主力部隊が、音を立てずに次々と輸送船へと乗り込んでいく。
兵士たちの間では、一切の私語が禁じられ、武具が立てるかすかな音だけが、夜の闇に吸い込まれていった。
そして、最も重要なのが、城壁の上に残された殿部隊だった。
選りすぐりの弓兵と投石兵からなる彼らは、あたかも街全体がまだポンペイウス軍の固い守りの下にあるかのように、篝火を焚き、時折鬨の声を上げ、カエサル軍の注意を城壁に引きつけ続けた。
この欺瞞こそが、作戦の成否を分ける鍵だった。
夜が明け、東の空が白み始めた頃。
市街地に住む市民の一人が、カエサル軍の野営地に向かって、予め決められていた合図の松明を振った。
ポンペイウスの脱出。その一報に、カエサル軍の陣営は激震した。
「全軍、突入せよ! ポンペイウスを逃すな!」
号令一下、カエサル軍の兵士たちが、津波のように市街地へと殺到した。
だが、彼らを待ち受けていたのは、ポンペイウスが仕掛けた、巧妙な罠の数々だった。
「前方が塞がれています! 迂回を!」
「落とし穴だ! 兵を引かせろ!」
カエサル軍は、進軍のたびに、予期せぬ障害物に阻まれ、貴重な時間を浪費していく。
その間に、城壁の上に残っていた殿部隊は、港の岸壁から下ろされた小舟に次々と乗り込み、沖合で待つ本隊の船へと回収されていった。
全てが、ラビエヌスが描いた完璧な脚本通りに進んでいた。
カエサルとレビルスが、ようやく市街地の罠を突破し、港にたどり着いた時。
彼らの目に映ったのは、もはや空っぽとなった港と、アドリア海の彼方へと消えていく、ポンペイ-ウスの艦隊の黒い影だけだった。
「…やられた、か」
レビルスの口から、悔しげな声が漏れた。
彼の計算は、ポンペイウス軍の物理的な脱出を阻むことには成功しかけていた。
だが、その計算には、敵の総司令官が、街そのものを「罠」として利用するという、奇策までは織り込まれていなかった。
一瞬の隙。
ただその一瞬の隙を、ポンペイウスと、そしてラビエヌスは見事に突いてみせたのだ。
彼らが唯一捕らえることができたのは、レビルスが築き上げた堤防の突端に接触し、動けなくなっていた、最後の二隻の輸送船だけであった。
沖合へと進む、ポンペイウスの旗艦。
ポンペイウスは、水平線の向こうに消えていくイタリアの地を、静かに見つめていた。敗北感はなかった。むしろ、最強の敵であるカエサルを、出し抜いてみせたという、確かな手応えがあった。
(待っていろ、カエサル)
彼は、心の中で呟いた。
(本当の戦いは、これからだ)
ローマの内乱は、イタリア半島という小さな舞台を終え、ギリシャ、アフリカ、そしてヒスパニアを巻き込む、世界大戦へと、その姿を変えようとしていた。
ブルンディシウムの港には、ただ、勝者も敗者もいない、空虚な風が吹き抜けていた。
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