第十章:机上の包囲戦
カエサル軍の強行軍は、もはや人間の限界を超えていた。
兵士たちは、思考を放棄していた。
ただ、前を歩く仲間の踵だけを見つめ、機械のように足を動かし、一歩、また一歩と南を目指す。
その狂気的な行軍の先頭で、しかし、一つの頭脳だけが、肉体の疲労を超越して、猛烈な速度で回転を続けていた。
副将、ガイウス・カニニウス・レビルス。
彼の戦場は、ぬかるんだ街道の上ではなく、その手に広げられた一枚の海図の上にあった。
「ボルグ、この沿岸部の岩盤の硬度は?」
「斥候の報告によれば、大半が石灰岩だそうだ。掘削は、不可能ではないが、相当な時間がかかるだろうな」
レビルスの問いに、隣を歩くドワーフのボルグが、息を切らしながらも即座に答える。彼の頭には、ガリア全土の鉱脈や岩盤のデータが叩き込まれている。
「セクンドゥス、周辺の森林から確保できる、最長の木材の長さは?」
「樫の木ならば、二十人いれば一日で五十本は切り出せましょう。ですが、これほどの強行軍の後で、兵士たちにそれだけの体力があるかどうか…」
古参兵のセクンドゥスが、皮肉と現実論を交えて答える。
「シルウァヌス、港の最も狭い部分の幅と、満潮時の水深、潮の流れの速さは?」
「幅はおよそ三百五十メートル。水深は最も深い場所で八メートル。潮の流れは、アドリア海から吹き込む北風によって、日ごとに大きく変動します。正確な予測は困難かと」
エルフの斥候シルウァヌスが、感情のない声で、寸分の狂いもないデータを報告する。
レビルスは、仲間たちから集まってくる膨大な情報を、休むことなく処理し、海図の上に走り書きしていく。
彼の頭の中で、前代未聞の巨大な港湾封鎖作戦が、少しずつ、しかし着実に形を成し始めていた。
それは、まさに机上の、あるいは、行軍のさなかに行われる、もう一つの包囲戦だった。
(…ダメだ。通常の堤防では、潮の流れと敵の妨害工作に耐えられない)
彼は、最初に描いた設計図を、心の中ですぐに破棄した。
(二隻の巨大な筏を両岸から進め、中央で連結させるか? いや、それだけの巨木を確保する時間がない。ポンペイウスは、我々が資材を整えるのを、指をくわえて見ているような男ではない)
思考が、行き詰まる。肉体の疲労が、じわりと脳を蝕んでいく。
その時、不意に、獣人のガレウスが、低い声で呟いた。
「…昔、俺たち狼の民は、川の流れが速い場所に、こうやって罠を仕掛けた」
彼は、地面に落ちていた石をいくつか拾うと、巧みに並べ始めた。
「川底に、まず粗朶を編んだ巨大な籠をいくつも沈める。その籠の中に、石を詰め込んで重しにする。それを土台にして、杭を打ち込んでいく。水の力は、正面から受け止めず、こうやって、斜めに受け流す…」
その言葉に、レビルスは、雷に打たれたような衝撃を受けた。
(…そうだ。なぜ、気づかなかった)
彼は、ローマの土木技術という、既存の知識の枠に囚われすぎていたのだ。
ローマの建築術は、巨大で、堅牢で、そして恒久的なものを作ることを目的としている。
だが、今必要なのは、そんなものではない。嵐が来れば壊れてもいい。数週間、いや、数日間だけ、ポンペイウスの艦隊の脱出を阻むことができれば、それでいいのだ。
「ガレウス、素晴らしい発想だ…」
レビルスは、心の底から感嘆の声を漏らした。
その顔には、疲労の色を忘れさせるほどの、活気が戻っていた。
彼の頭脳が、ガレウスの原始的な罠のアイデアを、ローマ軍の高度な工兵技術と、自らの計算能力によって、恐るべき速度で融合させていく。
それは、もはや堤防ではなかった。港の入り口を塞ぐ、巨大な「罠」。
自然の力を利用し、最小限の資材と労力で、最大限の効果を発揮する、驚異的な発想の建築物だった。
「…見えたぞ。勝利への方程式が」
レビルスは、完成した設計図を、満足げに見下ろした。その顔には、神の領域に触れた者だけが浮かべる、絶対的な確信が宿っていた。
その時、彼は気づいた。自分が、この狂気的な作戦を、この絶望的な状況を、心の底から楽しんでいることに。
かつては、ただ仲間を守るために、厭世的にその才能を振るっていた。だが、今は違う。
カエサルという、自らの計算能力を絶対的に信頼し、その限界を超えた要求を突きつけてくる男の存在が、レビルス自身の内に眠っていた、知的な闘争本能を完全に目覚めさせていたのだ。
(カエサル…貴方という人は…)
レビルスは、南の空を見上げた。その先には、ブルンディシウムの港と、自分と同じように、あるいはそれ以上に、この狂気の競争を楽しんでいるであろう、主君の顔が浮かんでいた。
二つの偉大な頭脳は、まだ見ぬ戦場で、すでに完璧に連携していた。
机上の包囲戦は、終わった。
後は、この狂気的な計画を、現実の世界に叩きつけるだけだ。ブルンディシウムに、到着しさえすれば。
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