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内乱記異聞  作者: 奪胎院
第一部:イタリア電撃戦

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第九章:最優先事項:速度

コルフィニウムを無血開城させたカエサル軍の南下は、もはや進軍というより、奔流と呼ぶのがふさわしかった。


兵士たちは、一日に行軍できる限界ぎりぎりの距離を、来る日も来る日も踏破し続けた。


季節は冬。


アドリア海から吹き付ける風は凍てつくように冷たく、道はぬかるみ、兵士たちの呼吸は苦しげに白い。


その過酷な強行軍の先頭に、カエサルと、その副将であるレビルスの姿があった。


レビルスは、すぐ隣を歩くカエサルの横顔を盗み見た。


その表情は、コルフィニウムで見せたような穏やかさを消し去り、獲物を追う狩人のように、鋭く、そして飢えていた。


彼の視線は、常に遥か南の一点に向けられている。ブルンディシウム。ポンペイウスが、今まさに脱出しようとしている港町だ。


(…間に合うか)


レビルスの頭脳が、休むことなく計算を続けていた。


ポンペイウスがギリシャから輸送船を呼び寄せ、アドリア海を渡る準備を整える時間。


それに対して、自分たちがブルンディシウムに到達するまでの時間。


それは、もはや戦略や戦術の優劣を競う戦いではなかった。どちらが先に目的地にたどり着くかという、あまりにも単純で、そして残酷な時間の競争だった。


兵士たちの疲労は、すでに限界に近づいていた。レビルスの仲間たちも例外ではない。


ドワーフのボルグは、その頑健な肉体をもってしても、荒い呼吸を繰り返している。

若き旗手のルキウスの顔にも、疲労の色が濃い。

獣人のガレウスだけが、その超人的な持久力で、表情一つ変えずに歩き続けていたが、それもいつまで続くか分からなかった。


「兵士たちの足が鈍っているな」


カエサルが、前を見据えたまま静かに言った。その声には、労いの響きはない。ただ、冷徹な事実確認の響きだけがあった。


「レビルス。お前の計算では、このペースでブルンディシウムに到達した場合、我々が勝利する確率は?」


「…五分、といったところでしょう」


レビルスは、正直に答えた。


「ポンペイウスは、我々がこれほどの速度で南下しているとは、想定していないはずです。その油断が、我々にとって唯一の勝機。ですが、もし彼の艦隊の集結が、我々の予想より一日でも早ければ…」


「我々は、みすみす虎を野に放つことになる」


カエサルは、レビルスの言葉を引き継いだ。


「そして、一度東方属州の強大な力と合流したポンペイウスを打ち破るのは、この内乱を泥沼に陥らせ、勝利を極めて困難にする」


その言葉に、レビルスは黙って頷いた。負ければ、死。それだけではない。


カエサルに従った全ての者たちが、国家反逆者として、その財産も、家族も、名誉も、全てを奪われることになる。その全ての運命が、今、この行軍の速度にかかっていた。


「ならば、レビルス」


カエサルは、不意に立ち止まった。そして、レビルスに向き直る。その瞳は、狂気とさえ思えるほどの、強い光を宿していた。


「もはや、躊躇はない」


カエサルは、レビルスにだけ聞こえるように、低い声で言った。


「最優先事項は、ただ一つ。『速度』だ。これより、全軍の行軍速度を、さらに一割上げる。兵士たちの疲労など、考えるな。ブルンディシウムに着くまでは、我々は人間であることをやめる。ただ、目的に向かって進む、一つの矢となるのだ」


常軌を逸した命令だった。だが、レビルスは驚かなかった。


カエサルという男は、常にそういう人間だった。常識という名の壁を、その圧倒的な意志の力で、何度も打ち破ってきた。


「そして、お前には、今から次の仕事を始めてもらう」


カエサルは、懐からブルンディシウム周辺の、極めて詳細な海図を取り出した。


「ポンペイウスを、イタリアから出すな。奴が港から船を出す前に、我々が港そのものを封鎖する。そのための、巨大な堤防と包囲網の設計を、今すぐ始めろ」


それは、もはや工学というより、神話の領域に近い発想だった。荒れ狂う冬の海を、人間の力で塞き止めようというのだ。


「…正気ですか」


思わず、レビルスの口から、偽らざる言葉が漏れた。


「正気で、戦争がやれるか」


カエサルは、初めて歯を見せて笑った。その笑みは、レビルスの背筋を凍らせるほどに、獰猛だった。


「不可能を可能にするのが、我々の戦い方だろう。違うか、レビルス?」


カエサルは、海図をレビルスの手に押し付けると、再び前を向いて歩き始めた。


「全軍に伝えよ! これより、ブルンディシウムまで、休みなく進軍する! ローマの未来は、我々の足にかかっている!」


その号令が、疲労しきった兵士たちの体に、最後の活力を注ぎ込んだ。彼らの雄叫びが、冬のイタリア半島に響き渡る。


レビルスは、その熱狂の中心で、一人冷静に、手の中の海図を見下ろしていた。


(…狂っている)


だが、その狂気こそが、カエサルという男の力の源泉なのだと、彼は改めて理解した。そして、自分は、その狂気を現実の形へと変えるための、計算機に過ぎない。


レビルスは、海図を懐にしまうと、カエサルの後を追って歩き始めた。彼の頭脳は、すでに、怒涛の勢いで港湾封鎖作戦の計算を開始していた。


波の高さ、潮の流れ、海底の地形、必要な資材の量、そして、敵の妨害。


無数の変数が、彼の頭の中で、新たな方程式を組み上げていく。


ローマの運命を決する、狂気の競争が、今、始まった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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