第八章:分裂した司令部
ティトゥス・ラビエヌスが、南イタリアのカプア近郊でポンペイウス軍の野営地に合流した時、彼が最初に感じたのは、困惑、そして微かな失望だった。
カエサルの野営地が、いかなる状況下でも秩序と機能性を失わない、研ぎ澄まされた刃のような場所であるのに対し、そこはまるで巨大な貴族のサロンのようだった。
豪華な天幕が立ち並び、従者たちが慌ただしく行き交い、あちこちから聞こえてくるのは、兵士たちの怒声ではなく、元老院議員たちの甲高い議論の声ばかり。
兵士たちの顔には疲労と不安の色が濃く、規律は緩みきっていた。
(…これが、ローマの正規軍だというのか)
エルフであるラビエヌスは、その種族が持つ秩序と伝統への執着から、この無秩序な光景に生理的な嫌悪感さえ覚えていた。
だが、彼は表情を変えることなく、総司令官であるグナエウス・ポンペイウスの天幕へと向かった。
天幕の中は、彼の予想を裏切らないものだった。床には東方属州から献上された分厚い絨毯が敷かれ、香が焚きしめられ、鎧姿の男たちよりも、優雅なトーガをまとった元老院議員たちの姿の方が遥かに多い。
その中心に、「偉大なる」と称されたローマの英雄、ポンペイウスが、疲れた顔で座っていた。
「よく来てくれた、ラビエヌス。君の合流は、我々にとって百人力だ」
ポンペイウスは、ラビエヌスの姿を認めると、心からの安堵の表情を浮かべた。だが、その声には、かつての覇気は感じられなかった。
軍議が始まると、ラビエヌスは、自らが把握しているカエサル軍の正確な情報を、簡潔に、そして冷徹に報告した。
「カエサルがイタリアに率いてきたのは、第十三軍団ただ一つ。後続部隊を合わせても、その総兵力は、我々がこの地に集めた兵力を大きく下回ります」
その言葉に、天幕の中が、ぱっと明るくなった。議員たちが、喜びの声を上げる。
「見たことか! やはりカエサルは無謀だ!」
「兵力で我らが上回っているのならば、負けるはずがない!」
「ガリアの蛮族相手の戦で、奴は少し思い上がったようだな!」
ラビエヌスは、その楽観的な喧騒を、冷たい沈黙でやり過ごした。そして、報告を続ける。
「ですが、兵士たちの練度と士気は、極めて高い。彼らは国家ではなく、カエサル個人に忠誠を誓う、事実上の私兵です。加えて、後方のガリアは、レビルスという名の有能な副将が完全に掌握しており、反乱の兆候は一切ありません。補給線も盤石です」
「レビルスだと? 聞き慣れぬ名だな」
小カトーが、忌々しげに言った。
「たかが補給官一人に、何ができるというのだ」
その言葉に、天幕にいる誰もが同意するように頷いた。
彼らは、カエサルの兵力が少ないという、自分たちに都合の良い情報だけに飛びつき、ラビエヌスが発した他の警告を、全く意に介そうとしなかった。
ラビエヌスは、その光景を、冷ややかな目で見つめていた。
(…終わったな、この戦は)
彼の心に、諦観が音もなく広がっていく。
この司令部は、分裂している。ポンペイウスという一人の軍人の下に、三百人以上の司令官がいるに等しい。
彼らは、戦場で剣を振るうことよりも、ローマに帰還した後の政治的復権のことしか考えていない。
彼らは、カエサルという男の本質を、何も理解していない。
(…やはり、正しかったのは、カエサルの方だったのかもしれぬ)
心の底で、そう認めざるを得なかった。カエサルが作ろうとしている新しいローマこそが、この腐りきった共和政を救う唯一の道なのかもしれない。
(だが)
と彼は思う。
(私は、私のDignitas(尊厳)に従う。ポンペイウスへの恩義を、今こそ返済する)
この分裂した敗軍の一員として、かつての戦友に滅ぼされる。
それが、自らが選んだ運命なのだ、と。ラビエヌスは、静かにそう結論付けた。
その夜、一人自室の天幕に戻ったラビエヌスは、ランプの灯火の下で、静かに自らの剣を抜いた。
鞘から現れた白銀の刃が、冷たい光を放つ。エルフの里で鍛えられた、彼の魂の半身とも言える剣だ。
彼は、軍議での諦観に満ちた自分を、心の内で叱咤した。
(…無様に敗れることは、それ自体が私のDignitasに反する)
そうだ。この戦いがどれほど絶望的であろうと、自分がやるべきことは、ただ一つ。
カエサルの戦術を知り尽くしたこの自分が、持てる力の全てを尽くして、敵を打ち破ること。
それが、ポンペイウスへの恩義に報いる唯一の道であり、ティトゥス・ラビエヌスという一人の戦士としての、最後の誇りだ。
彼は、剣の切っ先をじっと見つめた。その瞳に、先ほどまでの諦観の色は、もはやなかった。そこにあるのは、獲物を見据える狼のような、冷徹な決意の光だけだった。
(カエサル…)
かつての友の名を、心の中で呟く。
(お前を殺すことになったとしても、もはや、一切の躊躇はない)
ラビエヌスの諦観は、静かに、そして確実な殺意へと昇華されていた。
ローマ最強の将軍は、かつての主に、その刃を研ぎ澄まし始めた。
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