第七章:若き獅子の見た都
若きマルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、親友と共に、指導者を失ったローマの街を歩いていた。
彼の隣を歩く親友の名は、ガイウス・オクタウィアヌス。
カエサルの大甥にあたる少年だ。二人とも、まだ十四歳になったばかりだった。
アグリッパの頑健な肉体とは対照的に、オクタウィアヌスは病弱で、その顔色は冬の空のように青白かった。
だが、その静かな瞳の奥には、年齢不相応な、底知れないほどの冷徹な光が宿っていることを、アグリッパは誰よりもよく知っていた。
「奇妙なものだな、アグリッパ」
オクタウィアヌスが、か細い、しかしよく通る声で呟いた。
「都から三百人以上の元老院議員が消えたというのに、この通りは昨日と何も変わらないように見える」
その言葉通り、ローマは不気味なほどの平穏を保っていた。
フォルムでは人々が行き交い、店の主は客を呼び込み、子供たちは石畳の上を走り回っている。だが、アグリッパの鋭い感覚は、その日常の風景の下に隠された、張り詰めた弦のような緊張を敏感に感じ取っていた。
「いや、違う。よく見てみろ、オクタウィアヌス」
アグリッパは、低い声で応じた。
「人々は、笑ってはいない。誰もが、互いの顔色を窺い、ささいな物音に肩を震わせている。あれは、嵐の前の静けさだ」
彼の言う通りだった。市民たちの間には、二つの全く異なる感情が渦巻いていた。
一つは、ルビコンを渡ったカエサルという「怪物」に対する、底知れない恐怖。
そしてもう一つは、自分たちを見捨てて逃げ去ったポンペイウスと元老院に対する、静かな怒りと失望だった。
二人がスブーラの安酒場が立ち並ぶ地区に差しかかると、その空気はより一層、露骨なものとなった。戸口に集まった男たちが、声を潜めて言葉を交わしている。
「…聞いたか? カエサル様は、敵将のドミティウスでさえ、無罪放免にしたそうだ」
「本当か? あのスッラの時代とは違うと…」
「だが、ポンペイウス様たちは、我々市民を置き去りにして逃げた。一体どちらを信じればいいんだ…」
市民たちの心は、恐怖と期待の間で、大きく揺れ動いていた。
アグリッパは、その光景を苦々しい思いで見つめていた。彼の本能が、この宙吊りの状態がいかに危険であるかを告げていた。
「どちらかに、早く傾くべきだ。このままでは、都は内側から腐っていく」
「問題は、そこではないよ、アグリッパ」
オクタウィアヌスが、静かに首を振った。その目は、市民たちの不安の先にある、より本質的な問題を見据えていた。
「問題は、このローマから『正統な政府』が消え去ったことだ。執政官も、元老院の主流派も、法も、秩序も、全てポンペイウスと共に都を捨てた。今、この都を守っているのは、カエサル叔父上の威光と、レピドゥス殿のような数少ない人々の善意だけだ。あまりにも、脆い」
アグリッパは、その言葉にハッとした。自分が見ていたのは、市民の感情という、いわば混乱の症状だけだった。だが、この病弱な親友は、その病の根源が、国家統治の崩壊そのものであることを見抜いていたのだ。
「…では、どうなる? ポンペイウスたちが犯した過ちとは、何だ?」
「彼らは、ローマ市民を捨てただけでなく、『ローマ』そのものを捨てたのさ」
オクタウィアヌスの声は、年齢に似合わぬほど冷たい響きを帯びていた。
「彼らは、自分たちこそがローマだと信じている。元老院がある場所こそが、共和国の中心だと。だが、それは大きな間違いだ。ローマとは、この石畳であり、この神殿であり、そしてここに住まう市民そのものだ。彼らは、その本体を敵であるカエサル叔父上に、無傷で明け渡してしまった。これほどの失策はない」
アグリッパは、戦慄を覚えた。
この親友は、すでに戦の勝敗を超えた、国家の支配権そのものの本質を理解している。
武力で土地を奪い合うのではなく、人心と正統性を奪い合うことこそが、この内乱の本当の姿なのだと。
「…お前は、恐ろしいな、オクタウィアヌス」
思わず、偽らざる本音が漏れた。
オクタウィアヌスは、その言葉に気を悪くした様子もなく、ただ静かに前を見据えていた。
「そうかもしれない。だが、この時代を生き抜くには、そうでなければならないのだろう」
その時、オクタウィアヌスが、激しく咳き込んだ。その痩せた肩が、痛々しく震える。
アグリッパは、咄嗟に彼の背中を支えた。その手を通して伝わってくる親友の体は、あまりにもか弱く、そして冷たかった。
「無理をするな。今日はもう屋敷に戻ろう」
「…ああ、そうだな」
アグリッパは、オクタウィアヌスの肩を抱きながら、再び人々の間を歩き始めた。彼は思う。
この親友は、いつか、あのカエサルさえも超える怪物になるのかもしれない。
その類稀なる知性は、ローマの未来を、そして世界の形さえも変えてしまうだろう。
だが、その体は、あまりにも脆い。
ならば、自分が、彼の剣となろう。
彼の前に立ちはだかる全ての敵を、この腕で打ち砕こう。彼が、その頭脳を存分に振うことができるように、彼の隣で、最強の守護者であり続けよう。
若き獅子たちは、まだ、歴史の表舞台には立っていない。
だが、主を失った都の混乱の中で、二つの魂は、自らが果たすべき未来の役割を、静かに、しかし、はっきりと見定め始めていた。
ローマの未来は、この二人の少年の双肩に、すでにかかり始めていたのかもしれない。
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