第六章:三人の統治
首都ローマは、奇妙な静寂に包まれていた。
最高権力者である二人の執政官も、ポンペイウスに率いられた三百人以上の元老院議員たちも、皆アドリア海を目指して逃げ去った。
都は、その主を失ったのだ。だが、予想されたような暴動や混乱は起こらなかった。
市民の生活は、表面的には平穏を保っている。穀物の配給は滞りなく行われ、フォルム・ロマヌムではいつも通り商取引が行われている。
この危うい均衡を、たった一人で支えている男がいた。
法務官、マルクス・アエミリウス・レピドゥス。
カエサル派としてローマに留まった、数少ない名門貴族の一人である。
彼は今、事実上の首都の最高責任者として、元老院に残った議員たちをまとめ、法的な手続きを維持し、市民のパニックを抑えるという**「表」**の統治に奔走していた。
その夜、レピドゥスは、自身の壮麗な屋敷の一室で、二人の訪問者を待っていた。
客人の名は、ガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス・バルブス。カエサルの個人代理人として、その莫大な資産管理と政治工作を担う、腹心の部下たちだ。
やがて現れた二人は、レピドゥスのような貴族が持つ威厳とは、全く異質な空気をまとっていた。
彼らは騎士階級の出身であり、その本質は実務家、あるいは商人だ。
その服装は質素で、その立ち居振る舞いに無駄な装飾性はない。
彼らは、カエサルがローマに張り巡らせた、法を度外視した**「裏」**の実務を冷徹に進める、影の支配者だった。
「法務官殿、お時間をいただき感謝する」
オッピウスが、感情の読めない静かな声で言った。
「早速本題に入らせていただこう。カエサル閣下より、新たな指令が届いた」
「…聞こう」
レピドゥスは、緊張を隠して応じた。カエサル本人が不在の今、彼らからもたらされる言葉が、この都の運命を左右する。
「閣下は、ポンペイウス派に与した者たちの私有財産には、一切手を触れぬとお決めになった」
バルブスが、意外な言葉を口にした。
「かつてのスッラのように、敗者の財産を没収し、勝者が分配するような恐怖政治は、断固として行わない、と。市民の財産は、たとえ敵対者であっても、法の下に保護されるべきである、とのお考えだ」
その言葉に、レピドゥスの表情が、かすかに和らいだ。
それは、彼が最も懸念していたことだった。カエサルが、憎き政敵たちの財産を没収し始めれば、それは内乱を泥沼化させ、市民の支持を失う最悪の選択となる。
「…賢明なご判断だ。それこそが、我々の大義を揺るぎないものにする」
「ええ。ですが、法務官殿」
オッピウスは、静かに言葉を続けた。その声には、先ほどとは打って変わって、冷たい金属のような響きがあった。
「戦争には、金がかかる。兵士たちへの給金、食料、武具。それらを賄うため、カエサル閣下は**国庫**を、我々の管理下に置くことを決断された」
「何だと!?」
レピドゥスは、思わず椅子から立ち上がった。彼の顔から血の気が引き、その目は信じられないという色に染まっていた。
「正気か、君たちは! 国庫はサトゥルヌス神殿にあり、元老院の許可なくして、何人たりともこれに触れることは許されん! それは、我がローマの揺るぎなき伝統であり、法だ! それを破るというのか!」
国庫の接収。それは、私有財産の没収とは、全く次元の異なる冒涜行為だった。
それは、ローマ共和国のシステムそのものに対する、正面からの攻撃に他ならない。
レピドゥスが必死に守ろうとしてきた、カエサルの行動の**「合法性」**という最後の砦が、今まさに、内側から爆破されようとしていた。
「法務官殿のお怒りはごもっともです」
バルブスは、全く動じることなく答えた。
「ですが、その法と伝統を守るべき元老院議員たちは、今どこにおられますか? 彼らは、国庫を、そしてローマ市民を見捨てて逃げ去った。もはや、彼らに国を語る資格はない。この国庫の金は、ローマを守るために戦う、カエサル閣下の兵士たちのために使われてこそ、真にローマのための金となる」
「詭弁だ!」
レピドゥスは激昂した。
「それでは、我々は単なる簒奪者だ! ポンペイウス派と、一体何が違うというのだ!」
その時、それまで沈黙を守っていたオッピウスが、静かに、しかし、有無を言わさぬ口調で言った。
「違います、法務官殿。我々は、勝つ。それだけです」
オッピウスは、レピドゥスを真っ直ぐに見つめた。
「歴史とは、勝者が記すもの。我々が勝利すれば、これは『国を救うための、やむを得ぬ決断』として記録される。ですが、もし我々が敗れれば、貴殿がどれほど合法性にこだわろうとも、我々は皆、揃って国家反逆者として処刑される。それだけのことです」
冷徹すぎるほどの、現実だった。レピドゥスは、言葉に詰まり、ゆっくりと椅子に座り込んだ。彼の理想と、彼が守ろうとしてきた法と伝統は、この実務家たちの前では、あまりにも無力だった。
「…分かった」
長い沈黙の末、レピドゥスは、絞り出すような声で言った。彼の顔には、自らの無力さを噛みしめるような、深い苦悩の色が浮かんでいた。
「国庫については、私の権限外だ。君たちの好きにせよ。だが、これだけは、命に代えても守ってもらう。市民の私有財産には、絶対に手を出すな。そして、この都に、一滴の血も流させるな」
「お約束いたします」
オッピウスは、静かに頭を下げた。
「『表』の統治は、貴殿にお任せいたします。我々は、影に徹しましょう」
オッピウスとバルブスが音もなく退出した後、レピドゥスは一人、屋敷の窓から主を失った都の夜景を見下ろしていた。
自分は、カエサルの行動に合法性という美しい衣を着せることで、自らの良心を守ろうとしていたのかもしれない。
だが、その衣の下では、法など意にも介さない、剥き出しの権力闘争が始まっている。
ローマの運命は今、光と影、二つの全く異なる原理で動く、この三人の男たちの手に委ねられていた。




